[#表紙(表紙.jpg)] 曽根圭介 鼻 目 次  暴 落  受 難  鼻  第14回日本ホラー小説大賞短編賞受賞作 [#改ページ] [#見出し]  暴 落     1  ノックの音で目が覚めた。知らぬ間に眠っていたようだ。  目を開けても何も見えない。その理由を思い出すのに、まだ数秒かかる。  ぼくが何かを見ることができるのは、今は夢の中だけだ。  しかしそんな生活も、もうすぐ終わる。  またノックの音がした。 「はい」  返事をしたが、相手に聞こえたかどうか分からない。顔中を包帯で巻かれていて、アゴをほとんど動かせないので、大きな声が出せないのだ。 「こんにちは」  いつもの土屋さんじゃなかった。声から判断するに、どうやら若い女らしい。 「どなたですか」 「今日からこの病室を担当することになった田丸です」 「新しいヘルパーさんですか?」 「ええ」 「土屋さんは?」 「土屋さんは、昨日お嬢さんが入院したとかで、それで私が急遽《きゆうきよ》、この病室を担当することになりました」 「お嬢さんが?」 「ええ、でも大したことないみたいです。一ヵ月もすれば、退院できるそうですから」 「そう」  田丸さんはベッドのそばに来て「しばらく担当させてもらいます、田丸といいます。よろしくお願いします」と、あらためて自己紹介をした。 「ぼくの名前は長いから、病室では縮めて『イン・タム』と呼んでください。土屋さんもそうしてたから。公共の場では正式に呼んでもらわないと困るけど」 「はい。『イン・タム』さんですね」 「悪いね。そういう契約なものだから」 「ええ、婦長さんにうかがいました。大丈夫です」 「見ての通り、一人では何もできない。よろしくお願いします」  ぼくは全身をギプスに覆われ、ベッドに固定されているため、まったく動くことができない。 「こちらこそ、至らないことがあるかと思いますけど」 「ずいぶん若いみたいだね」  声の感じから、田丸さんはおそらく二十代だろう。少し不安になった。土屋さんはベテランのヘルパーで、よく気の付く人だったのだ。 「ご心配なく。これでも二年以上、経験はありますから」  田丸さんはぼくの心を読んだかのように言った。  当初の不安をよそに、田丸さんの仕事振りは手|馴《な》れたもので、体の自由がきかないぼくが、ストレスを感じるようなことはなかった。  しかし唯一の難点は口数が少ないことだった。おしゃべりだった土屋さんの後なので、なおさらそれを感じた。本も読めずテレビも見られない、当然、散歩など望むべくもない。娯楽といえばラジオか人と話すことぐらいの入院生活で、田丸さんの寡黙さは、少し困りものだった。  特に、自分の生い立ちについては、いくら水を向けてもけっして話そうとはせず、何か事情があるのか、巧みに話をそらした。  必然的に、二人で病室にいても、ぼくが話題をふらなければ会話は途絶えがちになる。しかしまさか、一生懸命やってくれているのに、「無口だからヘルパーを替えてください」とも言えなかった。 「じゃあまた来るわね。もう少しの辛抱。頑張るのよ」 「はい」  如月《きさらぎ》さんと話していると、時間がたつのは早い。  もう両親とは長い間連絡を取っておらず、友人もいない。だからぼくの病室に来てくれるのは、病院関係者以外では、如月さんだけだった。  如月さんは「イン・タム君のこと、よろしくね」と田丸さんに声をかけ、病室を出て行った。  それを待っていたかのように、田丸さんが言った。 「きれいな人ですね」 「そうだね」 「イン・タムさん、如月さんと話しているときが、一番楽しそう」 「そんなこともないけど、お世話になっている人だから、無愛想にもできないだろう」  如月さんが来てくれると、つい饒舌《じようぜつ》になり普段は言わないような軽口も出る。毎日ぼくを見ている田丸さんは気付いたのだろう。からかっているような口調ではなかったが、如月さんに対する思いを見抜かれたような気がして、ぼくは言い訳がましいことを言っていた。 「如月さんて『フジヤマ・パートナーズ』の人ですよね」 「そうだよ。あれで仕事もバリバリこなすんだ。業界でも有名な人らしい」 「美人で仕事もできる、すごいですね」 「ぼくがここまで来れたのも、あの人のおかげでね」 「そうなんですか」 「以前はこれでも、銀行員だったんだ」 「へえ、堅いお仕事だったんですね」 「まあね、それからいろいろとあって一度は地獄に落ちた。彼女に出会わなかったら、今ごろどうなっていたか」 「もし差し支えなかったら、話してもらえませんか」 「ぼくのことを?」 「ええ、少しイン・タムさんのこと知りたいなって思っていたので」 「大して面白い話じゃないよ」 「ぜひ聞きたいです」  鳥のさえずりが聞こえた。今日は珍しく、手術も検査の予定もない。長い午後になりそうだった。  ぼくは田丸さんに請われたのを機に、これまでのことを思い起こしていた。  人いきれで、最終電車の中はむせ返るようだった。  いつもは座れることなどまずないのだが、最初の停車駅で、正面に座っていた乗客が降りたため、幸運なことに席を確保することが出来た。早速翌日の会議で使うプレゼン資料をカバンから出し、膝《ひざ》の上に広げた。  まだ降車駅まで三十分はかかる。時間を無駄にするわけにはいかない。  ぼくは、日本を代表する三大メガバンクの一つ、「三友かえでKSJなかよし安心銀行新宿支店」に勤務していた。仕事は忙しく、残業はもちろん、休日出勤などあたりまえだったが、上司や同僚に恵まれ、毎日が充実していた。  しかしその日は、資料に目を通し始めたものの、どうも集中できなかった。気になっていることがあったのだ。  株価が落ちていた。それも原因に、まるで思い当たるふしがなかった。  何故だろう?  ここ数日、何をしていても、心の片隅を、絶えずこの問題が占めていた。  資料を手にしたまま、またそのことを考えていると、電車が駅に停まり、杖《つえ》を突いた老人が乗りこんできた。  それを見た周囲の乗客が、すぐに反応する。ドアのすぐ横の席にいたぼくも、すかさず立ち上がったが、考えごとをしていたせいで一瞬遅れた。  結局老人の手を一番早く取ったのは、ぼくとドアを挟んで反対側の席に座っていた、若いサラリーマンだった。その男はホテルのベルボーイのように慇懃《いんぎん》に、自分がそれまで座っていた席に老人を導いた。  実直そうな老人は深々と頭を下げ、譲られた席に腰を下ろした。若いサラリーマンは、早速老人に名刺を渡している。  ぼく同様、席を譲ろうとしていた者たちの敵意と嫉妬《しつと》に満ちた視線を浴び、その若いサラリーマンは勝ち誇ったような顔をしている。  終電に老人や妊婦が乗ってくることなどめったにない。惜しい機会を逃した。  今日も株価は下げ止まらないし、ついてない。  いや、暗く考えるのはよそう。あと十分ほどで日付が変わる。「明日、明日」自分を鼓舞するように、つぶやいていた。  駅から借りているマンションまでは、自転車を使っていた。  周囲は閑静な住宅地で、深夜は人通りも少ない。ひっそりとした家々の間を走りながら、またぼくは株価のことを考えていた。 「キャー」  女の甲高い悲鳴が、静寂を切り裂いた。  すぐに自転車を止め、周囲を見渡す。 「助けて!」  声の聞こえた方向に目を凝らしたが、街灯が点々と道を照らしているだけで何も見えない。  しかし迷うことなくそちらに自転車を向けた。  老人に席を譲った若いサラリーマンの、勝ち誇ったような笑みがちらつく。  今度こそ。  頼む、誰も来ないでくれ。  ペダルをこぐ足に力が入る。  前方の十字路で、もみ合っている二つの影が見えた。 「やめろ」大声で叫んだ。「何をしている!」 「助けに来ました。もう大丈夫です」右の方からも、声がする。  ぼく以外にも、女の悲鳴を聞いて駆けつけたやつがいるらしい。  負けるわけにはいかなかった。  しかし到着したときには、すでに男が一人、取り押さえられていた。  そばで若い女が震えている。化粧が濃く短いスカートを穿《は》いた、派手な感じの女だった。  犯人と思《おぼ》しき中年を取り押さえているのは、いかにもスポーツマン然とした角刈りの男で、喜色満面の笑みを浮かべている。 「こいつがこの女性に抱きついたんだ」聞きもしないのに、角刈りがぼくに向かって言った。  ぼく同様、遅れて到着した犬を連れた男は、くやしさをかくそうともせず、角刈りを睨《にら》んでいる。  まもなくパトカーのサイレンが聞こえてきた。  犯人はどうやら酔っ払って羽目を外した、中年のサラリーマンらしい。  角刈りは犯人を警官に引渡し、にこやかに事情聴取に応じている。捕まった痴漢は別の警官によってパトカーに押し込まれた。五十前くらいか。その年なら妻子持ちだろう。酔っていたとはいえ、何を考えているのか。  しかし今日はつくづく運がない。疲れが、どっと肩にのしかかってきた気がした。  マンションに着くと、留守電のメッセージランプが点滅していた。 「裕二。お疲れさま。また朝から下がってるわね、株価。やっぱり理由が分からないの? パパとママも気にしてるの。私も少し心配になっちゃって……。でも私、裕二を信じてるから。もしどうしても理由が分からないようなら、『新宿のあにき』に相談してみたら。結構あたるって友達が言ってたの。じゃあまた電話するね」  絵美からだった。  パソコンを立ち上げ、会社帰りに何度も見た終値を、もう一度確認する。市場が閉じている以上、動いていないのは分かっていたが、ため息が出た。  ついでに絵美の株価も見てみると、ぼくよりもわずかに高くなっていた。  絵美とは二ヵ月後に式を挙げることになっている。男のプライドとして、新婦よりは株価を上げておきたかった。  パソコンの画面をいくら睨んでみても、株価が上がるわけでも、下がり始めた理由が分かるわけでもなかったが、ぼくはしばらく目を離すことができなかった。  やはり電車の中の老人には、席を譲りたかった。  真面目そうな老人だった。席を譲ってくれた若いサラリーマンのことを、「敬老.com」に報告することだろう。あのサイトの市場への影響力はあなどれない。席を譲った偽善野郎が、薄ら笑いを浮かべながら自分の株価を見ている光景が目に浮かぶようだ。  そしてさらに惜しいのは、帰り道であった痴漢騒動だ。  警察が来ていた。犯人逮捕に協力していれば、確実に株価に影響したはずだ。まして犯人はさえない中年の酔っ払い、後で復讐《ふくしゆう》されたりする心配もない。まさにローリスク・ハイリターンの典型のような事件だ。  見ているそばから、ニュースボードには「北野大介さんお手柄、痴漢を逮捕、深夜の捕り物劇、わが身の危険を顧みず女性を守る」というテロップが流れ始めた。あの角刈り男のことだ。なにがわが身の危険を顧みずだ。相手はただの酔っ払いじゃないか。  しかし明日の売買開始から、きっとこの北野という男の株は上がることは間違いない。  ぼくは舌打ちし、パソコンのスイッチを切った。  翌朝も株価のことが気になって、おちおち朝礼どころではなかった。すでに市場が開いている時間だ。支店長の挨拶《あいさつ》の途中だったが、抜け出して、トイレで株価をチェックした。 「また落ちてる」取引開始と同時に、ぼくの株価は値を下げていた。  なぜだ。  絵美の両親も、ぼくの株価を心配しているらしい。きっと今朝も確認しているにちがいない。花嫁の親としては当然だろう。  市場全体の平均株価は横ばいだった。ぼくの株価も急落しているわけではない。じりじりと値を下げているといった感じだ。  まだ「エリート圏」から脱落するほどではなかったが、やはり気になる。  絵美の両親は、一流大学を出てメガバンクに勤めるぼくを気に入ってくれている。彼女の父親は会社を経営しており、絵美は一人っ子のため、娘婿になるぼくが将来はその会社を継ぐという、暗黙の了解があった。  理想的なカップルなのだ。実際ぼくと絵美の株価は、婚約発表直後に値を上げていた。  二人の結婚を、市場も祝福してくれたということだ。 「何が原因なんだろう」  どう考えても、ぼくの株が落ちる理由が分からなかった。  携帯を操作し、ぼくと「親友登録」している連中の動きをチェックしてみる。  誰もぼくの株を売ってはいない。 「『親友』を増やすか」  質にもよるが、一般的に「親友」が多ければ多いほど市場では評価される。知り合いの顔を何人か思い浮かべた。  佐藤はどうだ?  高校時代の同級生だった。地方公務員で子供が二人。堅い。  いやだめだ。去年同窓会に行ったとき、やつは土木課にいて地元の土建屋にいろいろ便宜を図っているという噂《うわさ》を聞いた。おそらくなにか見返りも貰《もら》っているはずだ。収賄で捕まるようなことにでもなれば、佐藤の株は暴落。そんなやつと親友ということで、当然ぼくの株価にも影響してくる。  安東先輩は?  去年、有機野菜を扱う農業法人を立ち上げ、当初は苦戦したようだが、最近は自然食ブームに乗ってかなり羽振りがいいらしい。  安東先輩の株価は、ぼくよりもかなり高かった。職業は「会社経営」になっている。  いや待てよ、危ないな。  安東先輩は大学在学中にIT系のベンチャーを起こし、すぐに行き詰まった。卒業と同時に今度はゴルフ会員権販売会社を始めたが、たしかそれも二、三年でダメになったはずだ。それ以後も何度か会社を立ち上げては潰《つぶ》している。  あの人は事業家というより山師に近い。今にネズミ講まがいの怪しげな投資会社でも始めそうだ。  市場も安東先輩をそう評価しているのか、年収のわりには株価はそれほどでもない。これではあの人が「親友」になってくれたところで、自分の株が上がるとは限らない。  やめておこう。  しかしこのまま落ちるに任せておくわけにもいかない。  昨晩、留守電に録音されていた絵美のメッセージが脳裏をよぎった。 「新宿のあにき」  一度相談してみるか。ふとそんな気になった。幸い、この新宿支店からさして遠くないところにいる。  午後は、新規融資先開拓のために外回りをすることになっている。ぼくは早速、行ってみることにした。 「新宿のあにき」の相談ブースの前には、相変わらず長い行列ができていた。 「新宿のあにき」は、新進気鋭のエコノミストだった。T大学経済学部教授という本業の傍ら、講義のない日は新宿の路上に机とホワイトボードを出し、市井の人々の相談にも応じている。テレビのコメンテーターとしても引っ張りだこで、最近では、次期日銀総裁の声まで上がり始めていた。  ぼくの順番が回ってきたのは、並び始めて一時間以上が過ぎたころだった。  のっぺりとした特徴の無い顔で、肌はむき卵のようにつるりとしている。髪は定規で測ったようにぴたりと七対三に分けられ、仕立てのいいスーツにブランド物のネクタイを、一分の隙もなく着こなしていた。  ぼくはさっそく、自分の株価について相談した。 「株価下落の原因が分からない。そういうことですね」  テレビで見る印象そのままに、表情の乏しい男で、なにを考えているかさっぱり分からない。顔にしわがないのはそのせいなのか、話す時は口のまわりの筋肉しか使っていないようだ。瞬きすら、必要最低限度に抑えている。それも経済合理性を考えてのことなのかもしれない。 「新宿のあにき」はゆっくりと立ち上がると、右手にペンを持ち、左手を腰に当てた。 「ご説明しましょう」  口調はまるで機械音声で、抑揚がない。名ばかりの経済学士のぼくに分かったことは、ハイエクとケインズの名前が二度ほど出てきたということだけで、あれよあれよと言う間にホワイトボードは数式とグラフで埋めつくされた。  もう書くスペースがなくなったころ、「新宿のあにき」はゆっくりと椅子に腰を下ろした。 「と、いうことです」  と言われても、なにがなんだかさっぱり分からなかった。 「で、ぼくはどうすれば?」 「新宿のあにき」は懐からタロットカードを取り出し、一枚引くように言った。これまでの説明はなんだったのだと思いつつも、その言葉に従った。  そしてしばらくぼくの選んだカードを凝視した後、まっすぐにぼくの目を見た。 「身近にいます」 「身近に? 株価下落の原因が、ぼくのそばにいるんですね」 「そうです。自分自身の周囲に目を凝らしてください」  狐につままれたような気分だったが礼を言って、驚くほど高額の相談料を払い、その場を辞した。  時計を見ると、支店に戻らねばならない時間だった。なんと言っても職場での評価は株価に直結しやすい。この大事なときに、つまらない部署に異動になったり、寂れた地方支店に飛ばされたりしたら目も当てられない。  支店に戻る道すがら携帯で株価をチェックした。その時画面を右から左に流れる、ニュースボードのテロップが目に入り、背筋に悪寒が走った。 「井田陽太、覚醒剤取締法違反で逮捕。井田陽太株は監理ポストへ」 「井田さんが……」  これだ。  ぼくの株価が下がっている原因を、ついに突き止めた。  井田陽太、ぼくの兄、青島幸一の幼馴染《おさななじみ》であり、現在は兄がボーカルを務めるバンド「地団駄」のギタリストだった。  兄もメンバーの井田と同じようにドラッグをやっていると、市場は見ているのだ。その弟であるぼくも、関連銘柄として落ちたに違いない。 「新宿のあにき」の言葉を思い出した。  ──身近にいます──  当たってる……。  その夜、久しぶりに実家に帰った。 「兄さんは?」 「二階だろ」父が、テレビのナイター中継を見ながら答えた。 「仕事は?」と聞くと、父の顔が見る見る不機嫌になる。 「例の牛丼屋、まだ続いてるの?」  母が、首を振った。「辞めたよ」 「何年か勤めれば、社員にしてくれるんだろ。どうして辞めるんだよ」 「知らない」 「聞きなよ」 「だって、しつこく聞くと怒るから……」  兄の幸一はミュージシャンだった。しかしあくまでも自称だ。音楽活動でまともな収入を得たことはない。高校を中退してから定職につかず、三五歳になる現在までずっとフラフラしている。実態は単なるフリーターだ。  学歴も専門知識もない中年フリーター。当然、兄、青島幸一の株価は、大卒で一流銀行に勤めるぼくの半値しかない。  しかし幸一のそんな生活は、一八歳の時にぼくが上場する前からであり、すでにぼくの株価に幸一のことは折り込まれている。そんな足かせのような兄がいながら、ぼくは頑張って自分の株価を「エリート圏」まで引き上げたのだ。 「井田さんが捕まったろ」 「ああ」  母は呆《あき》れた顔をし、父はため息をついた。 「兄さんは関係ないんだろうね」 「大丈夫だろ」 「ちゃんと確認したのかよ」 「しっ。声が大きいよ」  母の富子は、二階にいる幸一を気にして天井を見上げた。  父は相変わらず苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したような顔をしている。 「聞こえたっていいんだよ。この家と土地の相続権がなかったら、兄さんの株はもう値段なんかつかないんだ」 「いい加減にしろ、裕二。久し振りに帰ってきて何を言うかと思えば」父がぼくを睨《にら》んだ。 「まあ、まあ」母がとりなそうとする。 「ぼくが聞いてくるよ」 「何を?」 「決まってるだろ、井田さんと同じように覚醒剤をやっているのかどうかだよ」 「お兄ちゃんはそんな子じゃないよ」  何が「そんな子」だ。三五の男をつかまえて。  階段を二階に駆け上がった。幸一の部屋からは、物音一つしない。 「兄さんっ!」  返事はなかった。  ノックもせず、いきなりふすまを開けた。  兄はヘッドホンで音楽を聴きながら、ベッドで煙草をくゆらせていた。 「よお、来てたのか、裕二」  とろんとした目で、寝起きのような声だった。  腰まで伸ばした金髪。髭《ひげ》、鼻とまぶたにはピアス、肩のタトゥー。  まともな生活を営んでいる男の外見ではない。 「それ何?」 「それって?」  兄の目は虚ろで、焦点が定まっていない。 「その吸ってるのだよ」 「タ・バ・コ」  兄はぼくの顔に、煙を吹きかけた。  ぼくは煙草を吸わない。喫煙は株価に不利だからだ。それでも兄の吸っている物が、普通の煙草でないことは臭いから察しがついた。  突然兄が右手を挙げた。「あ・お・し・ま・こーいち、おしっこ行ってきまーす」  あっけに取られているぼくを尻目《しりめ》に、兄は壁を伝いながらフラフラと部屋を出ていった。  完全にラリってる。  灰皿を手に取り、吸殻を見てみる。フィルターがついていない。もちろん銘柄も印刷されていなかった。  洗濯物や雑誌で、足の踏み場もない部屋を見渡した。もう数年清掃をしていないに違いない。  子供のころから使っているタンスが、部屋の隅にあり、兄は昔から、大事なものをここに入れる。怪しい妖気《ようき》が、そのタンスを覆っているように見えた。  一番下の引き出しから一段ずつ開けてみる。中には洗濯してあるのかないのかわからない衣類が、乱雑に押し込まれていた。  三段目で手が止まった。重なったブリーフの間に、ペンケースのような金属製の箱が見える。  手に取って、恐る恐る開けてみた。  注射器と白い粉。  眩暈《めまい》がした。背筋を、いやな汗が伝い降りていく。  箱を元の位置に戻し、慌てて部屋を出た。上機嫌の兄が階段を上がってくる。 「帰っちゃうの。ぼくちゃん」  答える気にもならず、目をそらした。  青ざめて二階から降りてきたぼくを見て、母は即座に言った。 「どうだった?」  この二人に真実を言うべきだろうか。すぐに決断できなかった。 「幸ちゃん、何だって?」  答えないぼくに、じれたように母が聞いてくる。  兄弟がドラッグ中毒で捕まったとなれば、当然、ぼくの株価にも影響がでる。冗談じゃない。  しかし真相を知っている以上、警察へ通報しなければならない。見て見ぬふりをしていたとなると、犯人隠匿に問われかねない。それも悪夢だ。  一番良いのは、兄を諭してすぐにドラッグをやめさせることだった。  無理だ。ダメに決まってる。話して分かるくらいなら苦労はない。子供のころから一緒のぼくには、そんなことはよく分かっていた。 「変な薬なんて、やってないんだろ」  父もテレビを見ているふりをしているが、ぼくの答えを待っているのは明らかだ。 「兄さんと縁を切ろう」  母の顔が青ざめた。父ももうナイターどころではなくなったのだろう。体を起こし、ぼくの顔を見つめた。 「やっぱり変な薬を、幸一もやってるのかい」 「あいつはもうダメだ」  父がいら立ったような声を出した。 「どうなんだ。幸一は覚醒剤をやってるのか」  同じ屋根の下にいて何も気付かないとは、なんて間抜けなんだ。しかしこの二人なら、兄がジャンキーだと知ったところで、うろたえるだけで何もしないだろう。 「兄さんのせいで、俺の株も下がってる。薬のことはよく分からないが、もう縁を切る」  兄が薬をやっていることを、言わなかった。それで安心したのか、父はとたんに説教口調になった。 「絵美さんとの結婚を控えて、株価に神経質になっているのは分かる、だがな、大事な兄弟の縁を切らなければできないような結婚なら、やめたほうがいい」  父は義務教育を終えるとすぐに小さな町工場に就職し、定年までそこに勤めていた。一生で成し遂げたことといえば、ただ家族を食わせ、この吹けば飛ぶような小さな家のローンを返しただけの、つまらない男だ。  ぼくにもそんな人生を送れというのか。冗談じゃない。何としても絵美と結婚し、義父の会社を継ぐのだ。 「お前には絵美さんより、亜矢ちゃんの方が合っていたと俺は思う」 「ちょっとあんた。なにもそんな話をいまさら」 「お前は黙ってろ。人にはつり合いというのも大事だ。分不相応の相手と結婚したところで、後で不幸になるのはこいつだ」 「何が分不相応だよ。株価を見てみろ。俺と絵美こそつり合ってるんだ。今の俺は、あんた達とは違うんだよ」 「親に向かってあんたとは何だ」  それ以上何も話す気になれず、食事ぐらいしていけという母の言葉を無視し、実家を飛び出した。  現在の婚約者である絵美と出会ったとき、ぼくにはすでに亜矢子という婚約者がいた。  亜矢子は近所の幼馴染《おさななじみ》だった。幼稚園からずっと一緒で、高校に入学するころには、どちらが告白するでもなく、いつの間にかつきあい始めていた。  卒業すると亜矢子は就職し、ぼくは大学に進学した。その年の卒業生の中で、進学したのはぼくだけだった。ぼくらが生まれ育ったのは下の手地区という、あまり裕福とは言えない地域で、大学はおろか高校すら経済的な理由で通えない者も多かった。我が家も本来、ぼくを大学に行かせる余裕はなかった。しかし成績が良かったために、奨学金がもらえたのだ。この環境から抜け出すには勉強するしかない。そう思って頑張った結果だった。  裕福な家庭の子弟が多い大学生活は、ぼくにとってあまり居心地のいいものではなかった。遊んだ女の数がそのまま男の価値だと勘違いしているような同級生たちを横目に、ぼくは大学四年間、亜矢子一筋だった。 「三友かえでKSJなかよし安心銀行」に就職して三年目、仕事にも慣れ、亜矢子と将来のことを真剣に話し合うようになった。問題は株価だった。  亜矢子は母親を早くに亡くし、酒浸りでギャンブル三昧《ざんまい》の父親と、二人で暮らしていた。そんな家庭環境で学歴もない亜矢子の株価は、有名大学を出て一流銀行に就職したぼくとはつり合わなくなっていた。  婚約を発表すると、案の定、亜矢子の株は上がったが、ぼくの株は下がり始めた。  そんなある日、直属の上司である日高支店長に呼び出された。 「婚約を破棄したほうがいい。君の将来のためだ」  ぼくは言葉を濁した。支店長の気持ちはありがたかったが、結納まで済んでいた。いまさら婚約破棄などできない。 「このまま君の株が落ち続けるようだと、銀行員としての将来はなくなると思え。これでも俺は君を買ってるんだぞ」  合併を繰り返したおかげで、行内には様々な派閥が入り乱れ、ややこしい状況になっていた。派閥に属する行員の株価の総額が、そのまま派閥の力になる。支店長の気持ちも分からないではなかった。  その週末、支店長に誘われて行ったバーに、絵美がいた。偶然を装っていたが、支店長のセッティングであることは、明らかだった。  絵美の父親は、以前、「三友かえでKSJなかよし安心銀行」の行員で、日高支店長の上司だった。金融再編の前で、たんに三友銀行といっていたころのことだ。四五歳のときに銀行を辞め、会社を起こした絵美の父親は、日ごろから「娘の婿にはぜひ三友マンを」が口癖だったという。  そのときは、日高の見え透いた行為に反発を覚え、こちらから絵美に話しかけることはなかった。しかし絵美は、父親と元部下の工作を知ってか知らずか、それ以来ぼくに連絡してくるようになった。女性からの誘いをむげに断るわけにもいかず、食事やコンサートなどに付き合ううちに、ぼくは急速に絵美に魅《ひ》かれていった。もちろん、将来の社長の椅子が目の前にちらつくことなどまったくなかったと言えば、嘘になる。  亜矢子には泣かれ、亜矢子のガラの悪い父親には「婚約を破棄するなら慰謝料を払え」とすごまれた。  ぼくは言われるままに慰謝料を支払い、亜矢子と別れた。この不実な行為に、市場がどう反応するか不安だったが、ぼくの株は婚約発表前の水準まで値を戻し、亜矢子の株は急落していった。  どうするべきか。正直迷っていた。  兄の株を市場で売って縁を切るべきか、このまま兄弟でいるべきか。  まだ兄の犯罪は明るみになっていない。確かにダメな兄だが、いきなり縁を切れば、市場に「情の無い男」と判断され、さらに株価が下がってしまうことはないか。  一人の男の顔が目に浮かんだ。  あいつなら何かいいアドバイスをくれるかもしれない。 「新宿のあにき」は、また無表情でホワイトボードに数字を書き出した。前回同様、ぼくが理解しているかどうかなどおかまいなしに、経済予測をテープレコーダーのようにしゃべっている。 「で、ぼくはどうすれば?」 「新宿のあにき」は、今度はサイコロを振った。 「お兄さんと縁を切りなさい。すぐに」  もう迷いは無かった。  翌朝一番で、ぼくは「青島幸一株」の売り注文を出した。値段などいくらでもよかった。  心配していたが、すぐに買い手はついた。案外、両親が買ったのかもしれない。とにかく、手持ちの「青島幸一株」をすべて処分し、これで晴れて兄弟ではなくなった。  心の中にずっと居座っていた大きな氷が、徐々に解けていくような感じがした。生まれたときから一つ屋根の下に暮らしてきた兄だが、特に寂しさは感じなかった。それだけ、あいつには悩まされ続けてきたということだ。  ニュースボードには「青島裕二氏、青島幸一株をすべて売却、兄弟関係を解消」というテロップが、早速流れている。  兄さんという足かせが取れれば、ぼくの株価も持ち直すはずだ。 「とうとう上がった」  午前十一時過ぎ、すこし早い昼飯をとるために入った立ち食い蕎麦《そば》屋で、株価をチェックしたときだった。  市場は「兄弟の縁を切った冷たい男」というよりも、「ダメな身内を持つリスクをヘッジした決断のできる男」と判断してくれたようだ。  やはり「新宿のあにき」は正しかった。  店を出て空を見上げた。雲ひとつない青空が広がっている。まるでぼくの心の中のようだった。  潮目が変わったのだ。  今夜は久々に心ゆくまで飲むぞ。ぼくはさっそく「親友」たちに電話をした。     2 「聞いてもいいですか?」  田丸さんが、遠慮がちに言った。 「なんだい」 「イン・タムさんが婚約していた亜矢子さんていう人は、どうなったんですか」  答えるのを一瞬|躊躇《ちゆうちよ》した。 「風の便りに、東京を離れたって聞いた」 「それ以後のことは?」 「ぼくがそれ以上とやかく言える立場じゃないからね。今はどこでどうしているのか、まったく分からないんだ」 「たまには思い出すこともあります?」 「まあね」 「もしよかったら、私が調べてみましょうか?」 「調べるって?」 「亜矢子さんがどこでどうしているか」 「いや、そんな必要はないよ」 「でも気にならないんですか、亜矢子さんのこと」 「それはなるけど……」 「だったら私が、調べてあげますよ。案外まだインタムさんのこと思ってたりして」 「そんなことないさ」 「聞いてみなければ分からないじゃないですか」 「余計なことしないでくれっ」  自分でも驚くほど、きつい口調になっていた。 「すいません。出過ぎたことを」 「いや、いいんだ。ぼくの方こそ、ごめん」  しばらくの沈黙の後、田丸さんが、取り繕うように聞いてきた。「お水、いかがですか」 「ああ、少し貰《もら》おうかな」  口の中にガラスの吸い飲みが入ってきて、冷たい水が、のどを通っていった。 「まったく不便だね、一人で水も飲めないなんて」 「もうしばらくの辛抱ですよ」 「自分のヘルパーさんの顔だって見えない」 「たいした顔じゃありませんから」 「そんなことはない。声から察するに、かなりの美人だと思うよ」  珍しく、田丸さんが声をだして笑った。  気まずくなった雰囲気を、和ませようとしたのだろう。 「お話の続きですけど、イン・タムさんのお兄さん、いやその青島幸一さんの株を売って、どうなったんですか」 「株価が上向いたもんだから。友達と飲みすぎちまってね。目を醒《さ》ました時は、まだべろんべろん」  ぼくもあえておどけた口調で言った。ここからがいよいよ悲惨な話の始まりなのだが……。     *  兄の株を全部売ったことが奏功し、数日間落ち続けていた株価がようやく上向いた。  前夜は「親友」数人と久々に会って、一生株を持ち合うことを確認し、おおいに飲んでいた。目が覚めると頭蓋骨《ずがいこつ》の中でドラが鳴っている。這《は》うようにしてキッチンまで行き、冷蔵庫の中にあったミネラルウォーターを胃に流し込んだ。  支店には、体調が悪いので休みたいと電話を入れ、そのまま寝室に戻り、次に目が覚めたときにはもう陽は西に傾いていた。  なにげなくテレビをつけると、臨時ニュースをやっている。 「四葉銀行△△支店の立てこもり事件は、本日正午過ぎに解決し──」  四葉銀行△△支店? 実家のすぐそばだった。  画面では警察署の前で「報道」という腕章をつけたレポーターが、やや上ずった声で話していた。 「犯人は青島幸一、三五歳、近所に住む無職の男で──」 「え?」  床に落ちていたリモコンを拾って、スピーカーの音量を上げ、身を乗り出した。  画面が切り替わり、犯人が若い女の首に包丁を突きつけながら、銀行の玄関から出てくる映像が映し出された。遠巻きにした警察官たちに、犯人はなにやら怒鳴っている。  包丁を持っているのは、兄、いや、元兄の青島幸一に間違いなかった。  幸一が包丁を人質からわずかに離したすきに、警官が飛びかかった。幸一は抵抗したが、すぐにその場で取り押さえられた。 「店内にいた人質は二十名」「男性行員が切りつけられて軽傷」「犯人の尿からは覚醒剤反応」  アナウンサーの声が耳から入り、出ていった。ニュースが終わっても、ぼくは口を開けたまま、呆《ほう》けたように画面に見入っていた。  どれくらいそうしていただろう、ふと株価のことが脳裏をよぎった。まだ足元がふらついていたが、デスクまで行ってパソコンを立ち上げた。  すでに市場は閉まっている時間だ。もうぼくはあの男と関係がない。大丈夫だ。自分に言い聞かせるように、何度もつぶやいた。 「青島裕二」の画面が現れるまで、いつもより何十倍も時間がかかっている気がした。  終値を見る。ぼくの株価は下がっていなかった。それどころか上がっている。  思わず絶叫し、ガッツポーズをとった。わけの分からない歌が口から出た。踊りながら部屋中を歩いた。  一日の差だった。あと一日、兄の株を売るのが遅れていたら、自分は銀行立てこもり犯の弟として市場の洗礼を受けねばならなかった。  何たる好判断。  ちょうどそのとき電話が鳴った。絵美だった。 「ニュース見た?」こちらの反応をうかがう口調だ。 「ああ」 「お兄さんのことなんだけど……」 「安心しろよ。もう兄弟じゃない。昨日売ったんだ。兄さんの株」 「全部?」 「ああ」 「じゃあ大丈夫なのね」絵美の声音が一変する。 「うん、俺の株価は下がってないだろ」 「そうか、おかしいなと思ったのよね、裕二の株が落ちないから。もう兄弟じゃないんだ。パパとママにはそう伝えていいのね」 「ああ。俺たちはついてるぞ。絵美」  絵美は一刻も早く、ぼくと青島幸一が無関係だということを両親に伝えたかったのだろう。いつもはグズグズと会話を引き伸ばそうとするが、その日はあっさりと電話を切った。 「青島君、お客さんが待ってるよ」  数日後、昼食から戻ったぼくに、日高支店長が言った。なぜか声を落とし、辺りはばかるといった様子だ。 「君、何かやったのか?」 「と言いますと?」  支店長は言葉を濁した。  応接室で待っていたのは、青白い顔をした細身の男だった。  男は立ち上がると、名刺ではなく身分証明書を出した。 「『市場の番人』の森と申します」  メタルフレームのメガネの奥で、ねっとりと絡みつくような目が、ぼくを見ていた。頭をわずかに右に傾け猫背で立つその姿は、巨大な昆虫を連想させ、ぼくは話す前から、この男が嫌いになっていた。 「『市場の番人』の方が、何か?」 「お聞きしたいことがあって、お邪魔しました」  森はゆっくりとソファに腰を下ろすと、身を乗り出し、上目遣いでぼくを見た。 「青島幸一容疑者をご存じですね」 「ええ」 「ご関係は?」 「元、兄です」 「元」の部分に力を込めた。  森は口にハンカチを当て、ゴホゴホと嫌な咳《せき》をした。その間も、筋彫りのような細い目は、ぼくにぴたりと据えられている。 「兄弟関係は解消されてる?」 「ええ」 「解消されたのは?」 「○月○日です」  森はうなずいた。 「あの人とはもう兄弟でもなんでもないんですよ。あっちはまだぼくの株を持っているかもしれませんが、確かごくわずかでしょう」  定職につかない幸一は始終金に困っていたため、自分が持っていたぼくの株を、ちょこちょこ市場で売っているのは知っていた。 「とにかくぼくの側からは、兄ではないんです」 「もう一度聞きますが、あなたが青島幸一株を全部処分されて、兄弟関係を解消されたのは○月○日。これはお認めになりますね」 「そうです」 「つまり、青島幸一容疑者が銀行立てこもり事件を起こす、前日ということですね」 「ええ」 「あの事件で、青島幸一株は上場廃止になり、紙くずになった」 「それはそうでしょう。あれだけの事件を起こしたんですから」  森は乾いてひび割れた唇を、蛇のような細い舌でぺろりと舐《な》めた。 「ご同行願います」 「え?」  森は紙を一枚、ぼくの顔の前に突き出した。 「青島幸一株売買に関する、インサイダー取引容疑です」  市場の番人庁十五階の取調室は、そこに呼ばれた者に、一切希望を抱くな、と告げているかのような無味乾燥な部屋だった。 「本当に兄が、いや青島幸一があんなことをするなんて、ぼくは知らなかったんです」 「あなたは前日に実家を訪れてる。そして幸一容疑者と話をしている」  森は机の上に肘《ひじ》を突き、組み合わせた手の上にとがった顎《あご》をのせた。 「それはさっきから何度も言っているでしょ。あの人がまともに就職する気があるのかどうか、聞こうと思って……」 「その話し合いの最中に、彼の計画を聞いたんじゃないですか」 「計画」 「そう、銀行強盗の。それであなたは青島幸一株を持っていると危ないと思った」 「あいつに計画なんてありません。五分以上先のことを考えられない男なんです。金が欲しくて、場当たり的に近くの銀行を襲ったんですよ。だからぼくが、事前に計画なんて知るはずがない」  尋問を受けながらも株価が気になっていた。自分が市場の番人に連行されたことは、もう市場に伝わっていることだろう。きっと「青島裕二株」は値を下げているに違いない。絵美も心配しているはずだ。それよりも、絵美の両親の反応が気になった。 「じゃあこれはどうです。彼は覚醒剤をやっていました。あなたは知っていたのでは?」 「知りません」  幸一の犯罪行為についてはなにも知らない、ぼくはそれで押し通すと決めていた。  しかし森が机の上に出した写真を見て、思わず息を呑《の》んだ。 「青島幸一容疑者が、注射器と覚醒剤を入れていた箱です。見覚えがありますよね」  タンスの中にあった。あの金属製のペンケースのような入れ物だ。 「見たこともないですよ」  森の目が、妖しく光った。 「あなたの指紋がついてましたよ」 「何かの間違いだ」 「あなたも覚醒剤を使っていたのでは?」 「ちがう!」  森は立ち上がり、取調室の中を歩き出した。 「正直に言いましょう。われわれはあなたが覚醒剤を使っていたかどうかに関心はない、それは警察の仕事だ。ただあなたが、幸一容疑者の犯罪計画を事前に知って、彼の株を売ったのかどうかを知りたいだけなんです」 「だから、やつは計画なんて……」 「ここは考えものですよ青島さん。覚醒剤取締法違反とインサイダー取引、両方有罪なら、あなたの株は即取引停止になって上場廃止です」 「脅すんですか」 「どう取ろうがあなたの勝手です。もし協力してもらえるなら、警察にはこちらから言っておきます。あの注射器の入っていた箱は、以前あなたがペンケースとして使っていたものだから、指紋が出ても当たり前だとね。警察もわれわれが言えば納得するでしょう」 「ぼくは覚醒剤なんてやってないし、兄さん、いや青島幸一の銀行強盗襲撃も知らなかった」  森が耳元でささやいた。 「あなたは初犯だ。インサイダー取引だけなら、上場廃止までにはなりません」 「本当に知らなかったんだ」 「分かりますよ。あなたみたいなエリート銀行員が、あんなダメな兄を持った。縁を切りたかったんでしょ。でもそれならもっと前に株を売るべきだった。銀行強盗の計画を聞く前にね」 「銀行強盗なんて知らなかったんです」 「そうですか。仕方がありませんね。あなたの上場廃止は決まったようなものだ」 「ちょっと待ってくれ」  森の細い腕をつかんだ。  ニヤリと笑い、森はまたぼくの耳に口を近づける。 「あなたは青島幸一容疑者に、銀行強盗の計画を聞いちゃったんでしょ」 「…………」 「知ってたんですよね」  うなずくしかなかった。 「認めるんですね」 「青島裕二容疑者、インサイダー取引容疑で逮捕。青島幸一容疑者の銀行強盗計画を事前に入手、同容疑者株を売り抜けた疑い」  すぐにニュースが流れ、ぼくの株価は急落した。  結局、上場廃止は免れたが、課徴金の支払いを命じられ貯金はなくなった。それがまた株価を下落させる要因となった。  市場の番人から解放された日の夜、絵美がマンションにやってきた。 「どういうことなの」  絵美は憔悴《しようすい》しきっていた。目は泣き腫《は》らし、真っ赤になっている。  返す言葉がなかった。 「私たちの結婚はどうなるの」  今やぼくの株価は、絵美と婚約のときに取り決めた比率で交換し、入籍できる額ではなくなっていた。 「もう少し待ってくれ」 「少しって、いつまでよ」 「ぼくはこのままでは終わらない。絶対に復活してみせる」 「そのうち耳に入ると思うから、言っておくわ」 「何だよ」 「結婚話があるの」 「誰に?」 「私に決まってるでしょっ!」  感情を抑えていた栓が抜けたかのように、絵美は突然大声を出した。 「相手は?」 「社長の御曹司。次男だからパパの会社を継ぐこともできるの。パパとママは、『いいお話だ』って言ってる」 「俺はどうなるんだよ」 「別れろって」 「そんなヤツ、絵美のお父さんの会社目当てに決まってるだろ、絶対幸せになんてなれないぞ」  ぼくも人のことは言えないが、この際自分のことは棚に上げていた。 「裕二と別れないなら、自分たちの持分を御曹司に売るって、パパとママが……」 「絵美株を売るっていうのか」  絵美は箱入り娘だった。成人しているにもかかわらず、株の半数近くをまだ両親が持っている。 「その御曹司の父親も強引で、裕二と婚約したときの二倍の価格で買うと、パパとママに言ってるの」 「絵美はそれでもいいのか。買い占めて無理やり結婚するなんて、昔の話だ。今は男女の合意のもとに対等な株式交換で──」 「あなたに言われなくてもそんなこと分かってる。でもパパとママが私の株を売れば、私は彼のものなのよっ」  絵美はぼくに抱きつくと、胸に顔を埋《うず》めて泣きじゃくった。 「成金野郎め」  怒りで声が震えた。 「裕二が悪いのよ」 「とにかく何とかする。ぼくを信じて待っていてくれ」  絵美には強気なことを言ったが、何の算段もなかった。  その翌日、朝礼の終了後、日高支店長に手招きされた。 「出向?」 「ああ。ニコニコ宅配弁当に行ってもらう」  そんな社名は、聞いたこともなかった。 「三友グループなんですかそこは?」  日高支店長は目を合わそうとしなかった。その態度は、お前は自分の子飼いでもなんでもない、と言っている。 「まだここでやれます。何とかしてください。支店長」 「君の株価では、地方の支店勤務も難しい。あそこで精一杯なんだ。分かってくれ」  あまりのぼくの落胆ぶりを見て、支店長もさすがに不憫《ふびん》に思ったのか「関連会社で実績を作って、また呼び戻された例も過去にないわけじゃない。しばらく我慢して株価を上げろ、今に呼び戻してやる」と小さな声で付け加えた。  まずは株価を、せめて絵美との婚約時の水準にまで戻さねばならなかった。そうすれば絵美と結婚もできるし、銀行にも戻れる。  ぼくの株は、インサイダー取引問題発覚直後よりは多少上がっていたが、以前のような「エリート圏」には程遠く、格付け会社による分類では「凡庸圏」に落ちていた。  翌週からニコニコ宅配弁当で働き始めた。  マネージャーという、名ばかりの役職はついていたが、ぼくもデリバリー要員として、毎日のようにハンドルを握らねばならなかった。  宅配といっても、グループ企業である「三友かえでKSJなかよし安心銀行」の各支店に、ランチ用の弁当を運ぶのが主な仕事だった。第一線で働くかつての同僚に、ピンクの制服制帽姿で顔をあわせることが、何よりつらかった。  そんな日々を送っているとき、「親友」としてぼくと株を持ち合っている橋本が、電話をかけてきた。  橋本は大学時代の友人で、コンサルティング会社に勤めている。もちろん大学卒業以来、株価は「エリート圏」から落ちたことはない。 「今度、俺、結婚するんだ」  めでたい話のわりには、橋本の声が暗い。いやな予感がした。 「そうか、それはおめでとう。式には呼んでくれるんだろ」とは言ったものの、こちらは人の結婚を祝っている余裕などなかった。 「それでな」 「ああ」 「いいにくいんだけど。悪いが、株を売らせてもらうぞ」 「えっ。俺の株をか」 「ああ。結婚する前に、俺も不安材料を取り除いておきたい。『親友』はできれば『エリート圏』に入っているやつだけにしておきたいんだ」  ここでこいつに株を売られたら、ますます株価が下がってしまう。「親友」が一人減るのも、マイナス要因だ。 「ちょっと待て橋本」 「もう決めたことなんだよ。黙って売るのも悪いと思ったから。大柴も小川も売るようなこと言ってたぞ」  そんなことされたら、他の「親友」も引きずられて売るかもしれない。 「実は俺、今ニコニコ宅配弁当って会社にいるんだ」 「ああ。テロップで見た」  橋本が早く切りたがっているのが、受話器を通し、伝わってくる。 「まだ発表してないんだけど、近々銀行に戻れそうなんだ」 「本当かよ」 「ああ、俺のことを買ってくれている、日高って支店長がいる。その人から内々で連絡があったばかりだ」 「そうか、それはよかったな」 「ありがとう。だから、もう少し『親友』でいてくれよ。小川や大柴にもそう伝えておいてくれないかな」  橋本は少し考えてから「分かった」と答えた。 「それからこれはあくまでも俺の独り言として聞いて欲しいんだが、『三友かえでKSJなかよし安心銀行員』にしては、今の俺の株は割安だと思うんだよな」  橋本が生唾《なまつば》を飲む音が聞こえた。頭の中では、電卓も音をたてているはずだ。 「三友かえでKSJなかよし安心銀行勤務」と「ニコニコ宅配弁当勤務」では、当然市場の評価は違う。  三友かえでKSJなかよし安心銀行に戻れば、ぼくの株は急騰することは間違いない。 「何も聞かなかったことにしておくよ」橋本は言った。  さすが橋本、インサイダー取引を恐れているのだろう。しかし利に聡《さと》いこいつが、ぼくの株を買い増すことは間違いない。  ぼくは口の軽そうな友人数人に、銀行復帰の件をほのめかした。ニュースボードにもテロップが流れる。 「青島裕二氏、近々、『三友かえでKSJなかよし安心銀行』に復帰の観測」  案の定、翌日からぼくの株は、ジリジリ上がり始めた。  日高支店長は自分を呼び戻してくれると言っていた。別に橋本を騙《だま》したわけではない。要はそれを実現すればよいだけの話だ。嘘から出た真《まこと》ということわざもある。  翌日から勤務時間終了後は、新たな顧客を開拓するために、深夜までチラシをポストに配布して回った。  とにかく実績を上げて、銀行に戻る。それが今ぼくに出来る、一番の株価対策だった。  しかしそんな懸命の努力を御破算にしたのは、またしてもあの男だった。  朝から激しい雨が降っていた。雨の日はできれば外出したくないのが人情だ。そのため宅配弁当は、雨や雪の日にはいつもより多くの注文が入る。  横殴りの雨でカッパなどまるで役に立たず、原付でランチタイムの宅配を終え、会社に戻るころには、下着までびっしょりと濡《ぬ》れていた。  制服のズボンから水を滴らせ、事務所のドアを開けたとき、座っていた顔色の悪い男と目が合った。  ぼくを見るとその男はゆっくりと立ち上がり、軽く頭を下げた。 「市場の番人」の森だった。  森は薄気味の悪い笑みを浮かべながら、足を引きずるようにして近寄ってきた。  その病的な外見とは裏腹に、メガネの奥の細い目は、獲物を見つけた蛇のように、らんらんと輝いている。 「青島裕二さんですね」 「そんなこと聞かなくても、あんた分かってるだろ」 「どうです、お弁当の宅配は?」 「楽しくやってるよ」 「肌もいい色に焼けてるようですね」 「あんたもやってみるかい」 「これでも私には、大事な仕事がありましてね」  森の顔色は、以前にもまして悪くなっていた。こけた頬には、一面に粉がふいている。 「市場のルールを守らない、不心得者を懲らしめるという仕事が」 「あんた俺をからかいに来たのか」 「いいえ、そんなつもりはありません」 「じゃあなんだ。こっちは忙しいんだ。帰ってくれ」  森は顔を近づけ、ぼくの目を覗《のぞ》き込む。 「実はあるうわさを耳にしましてね」 「うわさ?」 「銀行に戻られるとか」 「ああ、いつかね。このまま終わるつもりはないよ」 「いつです。戻られるのは?」 「そんなことあんたに関係ないだろ」 「『近々銀行に復帰する』と、○月○日、あなたは親友である橋本重雄氏に言いませんでしたか」 「どうだったかな」 「『三友かえでKSJなかよし安心銀行』の人事部に問い合わせましたが、そういう予定は無いそうですね」 「将来の話だ。なにも明日ってわけじゃない。最近じゃあ、市場の番人は、民間企業の人事にも口出すのかよ」 「『近々、銀行に復帰する』と橋本重雄氏に言ったことは認めるんですね」 「ああ言ったかもしれないな」 「あなたは、株価操作の目的で、根拠の無い情報を流したんですね」 「株価操作?」 「そうです。銀行に復帰するという話が市場に伝われば、自分の株価が上がると思った。違いますか?」 「確かに、そういう一面はなかったとは言えないが……」  森はまた紙を一枚、ぼくの眼前に突き出した。 「証券取引法違反。『風説の流布』の容疑です。ご同行願います」  ぼくはそのまま、市場の番人庁のゴキブリが這《は》い回る留置場に放り込まれた。  翌日からぼくの取調べを担当したのは、やはり森だった。 「いいですか青島さん。あなたがやったことは市場への裏切りだ。いや、反逆と言ってもいい」 「ただ友達に、『ぜったい銀行に戻ってやる』という決意を話しただけじゃないか」  森はため息をついた。 「青島さん。また否認ですか」 「本当の話だ」 「否認するんですね。本当にそれでいいんですね。否認しているとなれば、当然心証も悪くなる」 「認めなかったらどうなるというんだ」 「あなたの株は監理ポストに入っています。今後のことを判断するのは市場の番人庁だ」 「あんたたちが、俺の未来を決めるわけだ」 「そういうことです」  森は上目遣いにぼくを見てにやっと笑った。 「上場廃止になれば、どうなるかはお分かりですよね」  知らない者などいない。  成人で上場を維持できなかった者は、社会から退場させられる。それがこの公正で安全な社会を維持する大原則だ。かつて法が統治することに失敗したこの社会を、見事に立て直したのは市場だった。 「いい物をお見せしましょう」  森は机の上に、十センチほどの小さなビンを置いた。中には透明な液体が入っている。 「なんだか分かりますか?」  水かアルコールのように見えた。 「あなたのお兄さんですよ。まぁ正確には、元、お兄さんですかね」  そのビンを手に取った。「これがあいつ?」  環境先進国のこの国では、すでに火力発電所は存在せず、大半の電力は「原発」と、「人発」と呼ばれる人力発電所でまかなわれている。  母の手紙には、兄は上場を取り消されてから、「関東村人発」に送られたと書いてあった。そこで社会のために、死ぬまで発電用自転車をこぎ続けるのだ。 「人発はね、もう自転車をこぐ時代じゃないんです。これは『ヒトノール』といって、人を原料とした新しいバイオ燃料です。このビンの中に入っているのは、お兄さんを処理して作ったヒトノールですよ」 「そんな……」  ぼくはその小さなビンを、じっと見つめた。 「さあ青島さん。罪を認めて悔い改めるか。否認してヒトノールになるのか。決めるのはあなただ」  上場廃止になれば、生きていることすらできないのか。  今回も選択の余地はなかった。  ぼくは「風説の流布」の罪を認め、市場の番人がぼくの上場維持を認めてくれることを、祈るしかなかった。  保釈になり、マンションに戻ると、絵美からメールが来ていた。 「あなたがまた捕まったと聞いて、パパとママが御曹司に私の株を売りました。  市場で買った分と合わせ、彼の持分は過半数を超えています。  来月彼と結婚します。 さようなら。 絵美」  市場の番人庁の審判はまもなく下った。ぼくはなんとか、上場廃止は免れることができた。しかし株価は底値まで落ちていたために、会社は解雇になった。  生きていくために、まず職を探さねばならなかった。経済的な面だけではない。仕事をし、社会に有用だと認められることが、上場を維持する第一条件なのだ。  仕事を紹介してもらおうと知り合いに電話をしても、みな忙しそうなふりをして電話を切ろうとするか、居留守を使われた。  当然「親友」は、すべていなくなっていた。  しかたなくコンビニで転職雑誌と弁当を買い、家に戻った。 「三友かえでKSJなかよし安心銀行」にいたころは、転職雑誌などを買うヤツは負け犬だとバカにしていた。ぼくが転職するとしたら、独立起業かヘッドハンティングされるとき以外ありえないと思っていたからだ。  プライドを捨て、雑誌に載っていた三流四流企業に片っ端から電話をしたが、まず株価を聞かれ、正直に答えると電話を切られた。面接すらしてくれる会社はなかった。  ぼくの株価は、格付け会社の分類では「不審者圏」に入っていた。  ピンポーン。  誰かが来た。  株価がここまで落ちると、これまでの友人は寄り付かなくなる。「不審者」の友人だと判断されて、自分の株価に跳ね返るからだ。何かのセールスだろうと、無視を決め込んだ。  ピンポーン。  ピンポーン。  あまりのしつこさに根負けし、ドアを開けた。 「青島さん。すぐに出ていただきますよ」  マンションを管理している不動産屋だった。 「どうしてです。家賃は月々ちゃんとお支払いしてましたよ」  不動産屋は契約書を広げた。 「ここを見てください。この物件は、借り手の格付け制限があるんですよ。あなた自分の格付けぐらい、ご存じでしょう」 「そんな」 「『不審者』が住んでいるという噂でも広まれば、不動産価値が落ちるんですよ。大家さんが一番嫌がることですからね」  その日のうちに、マンションを追い出された。  ボストンバッグ一つを持ち、街をうろついていると、行きかう人々が、みな幸せそうに見えてくる。  ホテルに泊まろうにも、クレジットカードも使えなくなっていた。 「宿泊できます。シャワー完備」の看板につられ、その夜一晩だけのつもりで、漫画喫茶に入った。  漫画喫茶の小さな個室には、パソコンが一台置いてあった。今さら株価を気にしてもしかたがないが、つい市場を覗《のぞ》いてしまう。やはり長年の習慣は、そう簡単に抜けない。  不動産屋が流したのだろう、市場のニュースボードに、「青島裕二氏、住所不定に。株価、連日のストップ安」と報じられていた。しかしその日の市場の関心を独占したのはやはり、「『新宿のあにき』捕まる。著名エコノミストでT大経済学部教授の『新宿のあにき』、昨夜路上で男子高校生に猥褻《わいせつ》行為、現行犯逮捕」だった。  ぼくも少なからず被害を受けてはいたが腹も立たなかった。あんな経済学者の言うことを信じた、自分がバカだったのだ。  翌日から仕事と住まいを探しに出かけたが、どこもまともに取り合ってくれなかった。疲れ果てて漫画喫茶に戻ると、身長一九〇センチ近い大男が、声をかけてきた。 「顔色がわりーなー。あんた、だいじょーぶかー」  男の名はハジメと言って、一年近くその店に住んでいるのだという。 「仕事? そんなもん、いくらでもあるさー」  ハジメは派遣会社に登録し、短期アルバイトで生活費を稼いでいた。 「あんたも、オラの会社に来るといーよー、ヒヒヒ」  何がおかしいのか、数本抜けた前歯を見せ、いつもヘラヘラと笑っていた。 「しかしぼくの株価で雇ってもらえるかな」 「株? なーに言ってるだよあんたー。仕事にかんけーねーだろーヒヒヒ」  確かにこの男を雇う会社なら、大丈夫かもしれない。  ハジメは自分の株価を知らないというので、店のパソコンで確認してやった。  ぼくと大差ない。  穴の空いたジーンズに、薄汚れたTシャツ、ガムテープで補修したスニーカーを履くこの男と自分の価値は、さして違わないのだと思うと泣けてきた。  しかしハジメは頭は弱そうだが背は高く筋肉質、体育会系の体をしている。ぼくのようなデスクワークしかしたことのないひ弱な男に、できる仕事があるのだろうか。  ハジメはボリボリと股間《こかん》を掻《か》きながら言った。 「仕事はいろいろあるさー。オラが明日連れてってやるよー。社長がいー人なんだー。ヒヒヒ」  ハジメのような男を使っているくらいだから、汚い雑居ビルの一室にある、あやしげな会社を想像していた。しかし派遣会社「ミスキャスト」は、近代的なオフィスビルのワンフロアを占める、予想外に大きな会社だった。  社長の沖本はまだ若く、おそらく四十代だろう。高そうなスーツで身を包み、手首には高級時計がさりげなく光っていた。  沖本はぼくの履歴書に目を通しながら、しきりに感心したような声を出した。 「すばらしい経歴じゃないですか」 「ありがとうございます」 「そんなあなたが、どうしてこんなことに」 「いろいろ事情がありまして」 「まあ詳しくは聞かないことにしましょう」  沖本は机の上のパソコン画面に視線を移した。 「失礼ながらあなたの株価を見させてもらいました。正直申しまして、この値段では、以前のような職を紹介しろと言われても、ちょっと難しい」 「贅沢《ぜいたく》を言うつもりはありません。雇っていただけるなら」 「もちろん働いていただきますよ。私は株価なんて気にしない。うちの派遣アルバイトは、学歴や資格がない者ばかりです。当然株価も低い。でもみんな夢を持ってる。私はね、その夢を応援するのが生きがいなんです。青島さんには何か夢がありますか」 「夢ですか……」  正直それどころではなかった。夢どころか、現状を維持することすらできず、こんなところまで堕《お》ちてきたのだ。 「以前うちで働いてくれていた子で、三度の飯より歌が好きなやつがいましてね。でも学歴がないし、不良だったから株価は最低だった。もちろん就職はできない。うちの紹介するバイトで食いつなぎながら、毎晩ストリートで歌ってたんです。そうしたら大手プロダクションのスカウトの目に留まりましてね。デビューですよ。だんだん人気が出て、今や大スターだ。もちろん株価も急騰です。こんな例もありますから、分からんものですよ人生」 「はい」 「私もこの仕事を小さなアパートの一室から始めた。夢を捨てないことです。たとえ今は派遣アルバイトでもね。明けない夜はないんですよ、青島さん」  若いがなかなかの人格者のようだ。ぼくは沖本に頭を下げ、契約書にサインした。  翌日の早朝、指示された場所には、五十人ほどの若者が集まっていた。歳のわりにはみな虚《うつ》ろな目をし、沖本の言う、「夢を追っている若者」というイメージとは、ほど遠い連中に見えた。  まもなく迎えのバスがやってきて、ぼくらが連れていかれたのは、広い河川敷だった。  護岸に作られた遊歩道には、通勤途中のサラリーマン、犬の散歩やジョギングをしている人々が行き交っている。  ミスキャストのスタッフは、ぼくらを川に架かる鉄橋の下に一列に並べた。 「みなさーん。これから仕事の説明をします。よーく聞いてください。みなさんには、電車がこの鉄橋を通るたびに、この棒を使って下から支えてもらいます」  公共工事の予算が減って、インフラの維持管理に支障をきたしているのだという。強度不足のこの橋を、人力で支えてくれというのだ。 「乗客の生命を守る、大事なお仕事です。がんばってくださーい」  ぼくらは一本ずつ木の棒を渡され、スタンバイした。 「電車が来まーす。ピー」  笛の音を合図に、棒を頭上に掲げ、橋げたを支える。それを交代要員が来るまで、繰り返すのだ。 「ねぇあんた。そんなに一生懸命やってもしょうがないぜ」  隣にいた、死んだ魚のような目の若者が話しかけてきた。 「しかし橋が落ちたら大変なことになるじゃないか。乗客だけじゃない、下にいるぼくらも危ないだろ」  フン。若者はバカにしたように鼻を鳴らした。 「あれを見てみなよ。おっさん」若者がアゴをしゃくった。  そちらに視線を向けると、いつの間にか、教師に引率された小学生の集団が、遠くからぼくらを見ている。 「あの子たちがどうかしたのか」 「あんた、俺たちがやっている仕事の意味が分かってねぇんじゃねぇの」 「意味?」 「そうだよ。俺たちはな、あのガキどもの手本ってわけさ」 「どういうこと?」 「ここでこんな間抜けな仕事をやってるだろ。その姿を小学生に見せる。そして先生が言うわけだ。『みんなも一生懸命勉強しないと、ああなっちゃうわよ』ってな。俺たちはそのために雇われたのさ」  そう言われてみれば、入れ替わり立ち替わり小学生の集団がやってきて、ぼくらを見ている。 「見てみろよあのガキたち。みんないい服着てるだろ。このあたりは上の手地区だからな」  ぼくの生まれた下の手地区の子供とは、たしかに服装が違う。そういう目で見ると、顔つきまで利口そうに見えてくるから不思議だ。 「おぼっちゃまがダメ人間にならないように、ここいらのPTAが『ミスキャスト』にこんな仕事を依頼したのさ」  変な仕事だとは思っていたが、そんな裏があったとは。  ハジメは知っているのかいないのか、汗びっしょりになって橋げたを支えている。 「あんた、第二部も残るんだろ」 「ああ」  仕事は二部制になっていた。ぼくはこの後に、第二部の仕事も引き受けている。とにかく現金が欲しい。 「まぁ、頑張るんだな」  若者はウンザリした顔をして、煙草に火をつけた。 「はーい。第二部の仕事も契約している方は残ってください」  ミスキャスト社員の声に、ぼくとハジメを含めた五人がその場に残り、そのほかの若者はバスに乗り、帰っていった。  すでに辺りは薄暗くなっている。 「じゃあ作業着に着替えてください」  渡されたのは、元の色が分からないほど汚れたコートと、ニット帽だった。おまけに両方とも何ヵ所か穴が空いていて、臭いもひどい。  他の連中に支給された服も、似たようなものだった。  よほど汚れる仕事をさせられるのだろうか。初日から第二部も欲張ったのは無謀だったと、そのときになって少し後悔した。 「じゃあ少し休憩します。迎えにくるまで、ここでちょっと待っていてくださーい」  ミスキャストの社員はにこやかに言うと、逃げるようにどこかに走り去った。  虫の声だけがする夜の河川敷で、ぼくらは待っていた。誰も何もしゃべらない。  第二部に残ったのは、呼吸するのも面倒というような、目に力のない者ばかりだった。  ハジメだけは鼻歌を歌いながらうまそうに煙草をくゆらせている。 「はたらいたあとのいっぷくはー、たまらないなー。そー思いませんかー、青島さん。ヒヒヒ」 「俺は吸わないから」  いつもこうやってニコニコ笑って世の中を渡っていければ、さぞ幸せだろう。きっとこいつには、何の悩みもないに違いない。 「くせぇ、くせぇ」 「社会のゴミがよー。クソの役にもたたないくせに」 「うぜえんだよ」 「狩っちまうか」  背後から声がした。振り返ると、数人の若者が集まってこちらを見ていた。高校生ぐらいだろうか、そのうちの一人と目が合った。 「なに見てんだよ、この宿無し」 「宿無し?」  自分の姿をあらためて見てみる。この汚い作業着では、そう思われても仕方がないかもしれない。 「おめぇら邪魔なんだよ。どっか行けや」  若者たちがぞろぞろと近寄ってくる。十人くらいいるようだ。われわれより人数が多い上に、手に棒のようなものを持っている。まずい。  ぼくはミスキャストの社員を捜した。食事でもしているのか近くには見えない。 「どっか行けって言ってんだよ、おらぁ」  若者の一人が、隣にいたハジメの足を角材で殴った。 「いてぇー」ハジメが顔をゆがめる。 「やめろ」  ぼくは思わず若者の腕をつかんでいた。  すると別の男にいきなり背中を蹴《け》られ、よろけて前に立っていた若者に抱きついてしまった。 「なんだよこの野郎、くせえな」  右頬を殴られた。  それを合図にしたかのように、若者たちは他のアルバイトも殴りだした。 「お前らなんて死んだって、誰も悲しみゃしねぇんだよ」 「どうせお前ら役立たずのゴミだ。俺たちがゴミ掃除をしてやるよ」  逃げようとしたがすぐに捕まり、引き倒されて、棒でめった打ちにされた。  横を見ると、他の連中は黙って若者たちの暴力に耐えている。  ハジメもその大きな体をアルマジロのように丸め、されるがままになっていた。  しだいに怒りがこみ上げてきた。  ぼくは立ち上がり、叫び声を上げながら若者の一人につかみかかった。 「な、なんだこいつ。逆らうのか」  反撃を予想していなかったらしい、戸惑っている。その隙を逃さず角材を奪い取り、相手の横腹に叩《たた》きつけた。  若造は、うめき声を上げて、その場に崩れる。  すると周りから仲間が集まってきて、ぼくの周りをとり囲んだ。  抵抗しない他の連中よりも、ぼくを相手にした方が、面白かったのだろう。 「この野郎」 「ぶっ殺せ」  必死で戦ったが、しょせん多勢に無勢、殴られ蹴られ、最後は夜の川に放り込まれた。  気がついたのは、薄暗い部屋だった。 「目が覚めたか」  酒臭い。白衣を着た痩《や》せた老人が目の前に立っていた。ぼくは体中を包帯で巻かれ、硬いベッドの上に寝かされていた。  まもなく「ミスキャスト」の社長、沖本が入ってきて、ぼくの顔を見るなりわめきだした。 「何てことをしてくれたんだこのクズ。この役立たず。バカ。やっぱりお前なんか雇うんじゃなかった」 「なんの、ほとへす」 「何のことです」と言ったつもりだった。  殴られて歯が飛び、口の中も切れていて、うまく発音できない。  興奮した沖本は、面接の時とはまるで別人だった。  怒りに任せ、大声をあげながら壁やベッドを蹴っている。  そのときになって初めて、第二部の仕事の真の意味を聞かされた。  エリートとなるために、良家の子弟は日夜勉強に明け暮れ、ストレスがたまっている。そのストレスがいつ犯罪に向かないとも限らない。それを恐れた親たちは、お坊ちゃまのストレス発散の対象を、ミスキャストに頼んでいたのだ。  ぼくは角材で、仕事依頼主の息子を殴ってしまったことになる。それもあの若者は、派遣会社の許認可を握る、厚生労働省エリート官僚の息子だった。 「あの坊ちゃんはなぁ。来年一八歳、新規公開だ。エリート官僚の息子で、T大現役合格も間違いないと言われてる。うちの会社に登録している、おまえらみたいなクズどもの株価を全部あわせても、坊ちゃんの株価には届かないくらいの有望株なんだぞ」  沖本はベッドの周りを歩き回りながら、頭をかきむしった。 「お前のおかげでうちの会社は生きるか死ぬかの瀬戸際にいるんだぞ。どうしてくれるんだこの野郎。会社が潰《つぶ》れたら、お前を潰してやるからな」  最後に、机の上にあった湯飲みを壁に投げつけ、沖本は出ていった。  医者はそんなやり取りを聞いていたのかいないのか、無表情でカップ酒をあおっている。  そしてぼくと目が合うと、冷たく言い放った。 「あんた金がないなら、明日の朝には出ていってもらうぞ」  翌朝、ぼくはボロボロの車椅子に乗せられ、病院を追い出された。病院といっても、看板もないしもた屋で、どうせあの酔っ払いもモグリの医者なのだろう。  外へ出たものの、自分がどこにいるのか分からない。唯一動く右手で車椅子を動かし、大通りまで出てみた。  たとえヤラセだろうが、暴力を受けたことにかわりがない。警察に被害届を出すつもりだった。  警察署を探してウロウロしているうちに、歩道の溝に車椅子の車輪を落とし、動けなくなってしまった。どう力を入れても、右手一本では抜け出せない。  困っているぼくを見て、バス停にいたサラリーマン風の若い男と、歩道を歩いてきた中年のおばさんが走り寄ってきてくれた。 「何かお困りですか?」 「お手伝いできることはありますか?」  ありがたかった。世の中まだ捨てたものではない。 「ほーばん(交番)」 「え?」 「へーはつ(警察)」 「分かりました。警察ね」おばさんが聞き取ってくれた。 「じゃあぼくが連れていってあげましょう」サラリーマンがぼくの背後に回り、車椅子のハンドルを持った。 「待ってよ、ちょっと」おばさんがその手をつかむ。 「何です」 「私が連れていくわ」 「ぼくが見つけたんですよこの人は」 「いや、私が先よ」  二人が喧嘩《けんか》を始めた。  サラリーマンがおばさんに冷たい視線を浴びせる。「あんたこの人を助けて、自分の株価を上げたいだけなんだろう」 「そういうあなたこそ」 「ぼくは純粋に人助けをしようと思って」 「じゃあこうしましょう。二人で連れていく。警察の調書にも二人の名前を併記してもらう。どう」年の功で、おばさんが妥協点を見出した。 「じゃあ、山分けってことで」サラリーマンが渋々納得した。  ぼくは二人に連れられ、交番に行った。 「どうしました?」  若い警官は、全身を汚い包帯で巻かれ、錆《さ》びついた車椅子に乗ったぼくを見て、顔色を変えた。 「おひもほといふおほこに、やはれまひた(沖本という男にやられました)」 「え? おっしゃっていることが分からないんですが、何か身分証明書をお持ちですか?」 「ほけっとに(ぽけっとに)」 「え? ポケットですか。ちょっと失礼します」  警官はぼくのズボンのポケットを探って財布を見つけると、中からIDカードを出した。  助けてくれた二人は、ギラギラした目でそのIDカードを見つめている。  警官がIDカードをカードリーダーに通した。すぐに机の上にあったディスプレイに、ぼくの個人記録と株価が表示される。  それを見て、明らかに警官の表情が曇った。 「ひどい株価だな。『不審者圏』だよ。この人」  それを聞き、おばさんとサラリーマンの顔に、失望の色が表れる。 「あなた方、骨折り損でしたね。こんな価値のない人を助けても、意味ないですよ」 「私はそんなつもりでは……。ただこの人が困っていたから」と、おばさん。 「私もです」  二人の偽善的回答に、警官は失笑で応《こた》えてから、ぼくに鋭い視線を向けた。 「お前、見たところまだ若いようだが、何かやったんじゃないのか」  株価を見たとたん、警官はぼくを「お前」呼ばわりするようになった。  警官の言葉を聞き、また二人の目がギラつきだした。犯罪者逮捕に協力したとなれば、株価に反映される。 「何かやってるなら、正直に言った方がいいわよ」おばさんが言った。 「そうだ。何かやってますよ。こいつ」サラリーマンも同調する。  ぼくは首を振った。 「本当のこと言え、警察を舐《な》めるなよ、この野郎。その傷は何だ」 「ぼふはひはいはだ(ぼくは被害者だ)」 「なにを? ちゃんとしゃべれ」  そのとき、交番の電話が鳴った。警官が受話器を取る。 「えっ。引ったくり? はい、はい、分かりました。すぐ急行します」  警官はあわただしく立ち上がった。 「悪いが、事件発生だ。あんたらさっさと帰ってくれ」 「この人はどうするの」おばさんがぼくを指差し、不服そうに聞いた。  警官は冷ややかな目でぼくを見た。「もう帰れ。帰るところがあるならな。今度この辺をウロウロしていたら、なんか理由を付けてしょっぴくからな」 「そんな、このまま帰しちゃうんですか」サラリーマンが食い下がる。 「何か文句でも? 本官は忙しいんですよ」逆に警官に睨《にら》まれ、サラリーマンは押し黙った。  警官は自転車にまたがり、どこかへ行ってしまった。  二人とぼくだけが交番に残された。 「クソ忙しいときにふざけやがって、とんだ無駄足だ」 「まったくよ」おばさんが同調する。  サラリーマンが周囲を見回し、誰も見ていないのを確認してから、いきなりぼくの頭をはたいた。 「これくらいしないと気持ちが収まらないよ」 「私も。これでも食らえ! ぺっ」  おばさんはぼくに唾《つば》を吐きかけた。  二人はぼくを忌々しげに一瞥《いちべつ》し、交番から出ていった。  もう涙も出なかった。  ぼくはキーキーと音のする車椅子を動かし、交番を出た。  無一文だったので、その夜から、公園で寝るしかなかった。  同じ公園で寝ていたトミさんという老人に、ダンボールを数枚とビニールシートを分けてもらった。  トミさんは、不法投棄された粗大ゴミを拾って中古屋に持っていき、わずかな現金収入を得ていた。それが社会に貢献していると判断され、かろうじて上場を維持していた。  ぼくも何かしないと、「市場の番人」に見つかれば無用人間と判断され、今度こそ上場廃止に追い込まれかねない。  しかし右手しか動かない体では、仕事は見つからなかった。  公園生活が一ヵ月を越えた頃、ぼくのダンボールハウスのドアを、一人の男がノックした。 「株式会社ドンツーの木村と申します」  紺のスリーピースを、まるで紳士服店のモデルのようにきちんと着た男は、にこやかに笑って名刺を出した。 「ドンツー?」 「広告代理店です」男は異臭のするぼくに対しても、営業スマイルを絶やさなかった。 「広告代理店の方が、ぼくに何の用でしょう」 「失礼ですが、現在何かお仕事は?」 「いいえ、なにも。あっ、いや。路上の清掃業務を」  営業マンを装っているが、「市場の番人」かもしれない。上場資格のない者を見つけて、市場から退場させるのがやつらの仕事だ。たとえ紙くず同然の株でも、上場を維持できなければ生きる資格がない。兄さんのように燃料にされるのは真っ平だ。 「道の清掃を。すばらしいお仕事ですな。もしよろしかったら、当社にぜひご協力いただけないでしょうか。非常に簡単で、社会に貢献でき、尚且つ確実に現金収入が得られるお仕事なんですが」 「でもぼくはこの体ですから」  木村は瞬時に眉の両端を下げ、深く同情します、という表情を作った。「大変ですね。でも問題ありません。どなたにでもできるお仕事です」  その時、腹がなった。二日間、ずっと公園の水だけで空腹をごまかしてきた。背に腹は代えられなかった。 「詳しく話してください」  株式会社ドンツーの木村はニッコリと笑って、ブリーフケースから上質紙に刷られたパンフレットを出した。  大学病院の広い待合室では、多くの患者が順番を待っていた。 「インキン・タムシにインキンバスター様。インキン・タムシにインキンバスター様」  診察室から出てきた若い女の看護師が、待合室で声を上げた。  その場にいた患者や付き添いの人たちが、顔を見合わせ、笑いをこらえている。 「インキン・タムシにインキンバスター様。インキン・タムシにインキンバスター様」 「インキン・タムシにインキンバスター様はいらっしゃいませんか?」 「ハイ」ぼくは右手を、看護師に向かって挙げた。  待合室にいた人々の視線が、ぼくに集中する。  広告代理店、株式会社ドンツーの木村がサインさせたのは、ぼくのネーミングライツ売買契約書だった。  ネーミングライツとは命名権のことで、球場やホールが企業に権利を売ると、「○○球場」だの「△△ホール」と名前が変わる。  最近ではそれが個人にも浸透し、手っ取り早く現金が欲しい者が、自分のネーミングライツを売っていた。ひどい親になると、生まれたばかりの我が子の命名権まで売っているという。  個人名として使用するには抵抗がある名前ほど、命名権は高く売れる。  ぼくの戸籍上の名前はすでに「青島裕二」ではなく、グローバル製薬との契約により「インキン・タムシにインキンバスター」に変わっていた。  契約に含まれているのは名前の変更だけではない。「一日三回以上、公共の場所で名前を呼ばれること」という付帯条項もある。それも三回のうち一回は、病院の皮膚科の待合室で呼ばれなければならなかった。  皮膚科ならインキンタムシに悩んでいる人も多いだろう。グローバル製薬側も、最大限の広告効果を狙っているのだ。  尚且つぼくは、顔面の広告枠もグローバル製薬に売ってしまっていたため、額や頬には「インキン・タムシにインキンバスター」というバナー広告タトゥーが彫りこまれていた。     3 「おはようございます」 「おはよう」 「イン・タムさん、ご気分どうですか?」 「うん、麻酔の影響か、すこし頭がボーっとしているけど。悪くないよ」 「そうですか……」 「昨日のおやすみはどこか行ったの?」  昨日は田丸さんの休日だった。 「いいえ、別に」 「デートだろう」 「彼氏なんていませんから」 「本当かなぁ。田丸さんのタイプってどんな人なの?」  田丸さん少し考えて、「イン・タムさんみたいな人です」と言った。 「ハハハ、ありがとう」 「本当ですよ」 「お世辞でも嬉《うれ》しいよ」 「お世辞じゃありません」  思いつめたような声に聞こえた。まさか本気ということもないだろうが、妙な雰囲気になってきたので、話題を変えた。 「この前は、どこまで話したっけ?」 「え?」 「ぼくがこの病院に来ることになった経緯」 「ああ。イン・タムさんが、イン・タムさんになったところまでです」 「そうか、ネーミングライツを売ったところまでだね。じゃあ続きを話そうか」 「そうですね」 「つまらないかな、こんな話」 「いいえ、そんなことありません、ぜひ聞かせてください」     * 「インキン・タムシにインキンバスター様、インキン・タムシにインキンバスター様」  銀行の窓口で、制服を着た女性銀行員がぼくを呼んでいた。  最低三回は大声で言ってもらわねばならない。 「インキン・タムシにインキンバスター様」  頃合を見てぼくは車椅子を前に出し、「すいませーん。どんなインキンやタムシも一発で治す、インキン・タムシにインキンバスターは、ぼくでーす」と大声で応《こた》える。  人前で名前を呼ばれるためなら、用もないのにどんな店にも入った。 「変わったお名前ね」  後ろから声をかけられたのは、銀行を出て信号待ちをしているときだった。  スーツ姿の背の高い女が、口元に微笑を浮かべ、ぼくを見ていた。  ぼくは女を無視し、視線を前に戻した。  女は真横にやってきて、「突然ごめんなさい。こういうものです」と名刺を出した。  ぼくは名刺を一瞥《いちべつ》しただけで受け取らなかった。信号が青に変わると、何も言わずに車椅子を動かした。  女は車椅子の後をついてくる。 「ちょっと待って」  スピードを上げ女を振り切ろうとした。 「話を聞いて」  女も足を速め、離れようとしない。  それでも無視していると、女は車椅子の前に飛び出し、ゴールキーパーのように両手を広げた。 「話を聞いて、青島裕二さん」  結局、ぼくは半ば強引に、近くの喫茶店に引きずり込まれた。  窓際の席で、女はあらためて名刺を出した。 「『フジヤマ・パートナーズ』マネージャー 如月|睦美《むつみ》」 「『フジヤマ・パートナーズ』ってご存じ?」  聞いたこともなかった。 「われわれの仕事を簡単に言うとね、困った状況に追い込まれている人が、社会復帰するのを助けてるのよ」 「ボランティア団体ですか」 「まあ似たようなものね」 「どうして僕の昔の名前を」 「病院でよくお見かけしたので、興味を持って調べてみたの。インキン・タムシにインキンバスターという変な名前の男には、いったいどんな過去があるのか」  如月はぼくの経歴をそらんじていた。 「下の手地区出身。OK大学を首席で卒業、そして『三友かえでKSJなかよし安心銀行』に就職。新宿支店法人営業部の若手エースと期待されていたが、インサイダー取引で関連会社に飛ばされ、その後風説の流布で──」 「俺はやってない」テーブルを叩《たた》いた。  店内が静まり返り、周囲の客の視線が、ぼくたちに集まった。  しかし如月という女は、すこしも動揺していない、口元に笑みすら浮かべている。  その妙に落ち着き払った態度も、癪《しやく》に障った。 「帰る」 「もう少しいいでしょ」 「仕事があるので」 「あなた、一生そうやって人前で名前を呼ばれて、小銭を稼ぐだけの人生でいいの」  車椅子を動かそうとしたぼくの手を、如月が押さえる。 「あなたはそんなことで終わる人じゃない。私たちならあなたを救える。騙《だま》されたと思って事務所に来て」 「もうたくさんだ。あんたみたいな口のうまい連中に、いままで散々騙されてきたんだ」 「それならもう一回ぐらい、騙されてもいいじゃない」  如月はぼくの目を、じっと見ていた。 「フジヤマ・パートナーズ」の事務所は、一時は成功者の代名詞ともなった、スッポン木ヒルズにある高層ビルの三十階にあった。  巨大なガラステーブルと、すわり心地の良さそうなハイバックチェアの並ぶ会議室で、ぼくは如月と向き合っていた。 「この世に価値のない人間なんて、いないの」 「きれいごとだよ。市場は俺を価値のないものとみなしてる。株価をみれば分かるだろ」 「じゃあ自分は無価値だと認めてしまうわけ?」 「そうじゃないが、あの株価ではもう誰も雇ってくれない。家も借りられないんだ。それに体も……」  ぼくは動かない両足と左手を、右手で何度も叩いた。その残された右手すら、沖本に連れて行かれたモグリ医者の治療ミスで、上腕部が変形している。 「あきらめちゃだめ」 「いったい、あんたたちの目的は何だ」 「人を助けたいだけ」  なにか裏があるはずだ。どいつもこいつも、人の弱みにつけ込むことしか考えていない世の中だ。 「あなたは悔しくないの、あなたほどの人が、市場にこの程度の評価しかされないなんて」 「仕方がない、市場は絶対だ」 「あなたを犯罪者扱いした『市場の番人』や、あなたを見捨てた『親友』、そしてなにより市場そのものを見返してやろうと、どうして思わないの」  薄気味の悪い森の目や、ぼくの株を容赦なく売って「親友」関係を解消し、電話一本よこさなくなった橋本たちの顔が脳裏をよぎった。 「言っておくが、俺には金なんかない。体もこの通りだ」 「そんなこと分かってる。あなたの治療にかかる費用は、すべて私たちが面倒見る」 「そんなうまい話が……」 「再生ファンドって、聞いたことあるかしら」  再生ファンド? 銀行員時代、アメリカにそんなものがあると、聞いた覚えがある。 「今まではあなたぐらいの株価の人は、たとえ上場を維持できても、負け犬として惨めな人生を送るしかなかった。でも時代は変わった。まずあなたの株をわれわれが全部引き取る。上場廃止にするの」 「上場廃止。そんなことになれば俺は──」 「安心して、法律が変わったのよ。新しい親が見つかれば、たとえ上場廃止になってもバイオ燃料にされることはないわ」 「新しい親?」 「そう。つまり子供時代にいったん戻ると考えれば分かりやすいわね。子供のころは親が株を持って上場していない。つまりこれからは私たちがあなたの親代わり、あなたは生まれ変わるの。あなたの価値が一番高くなるように育て直して、再上場する」 「育て直して、再上場?」 「そうよ。あなたはこれから第二の人生を生きるの」  如月の言動は、自分が間違うことなどありえない、と言わんばかりに、自信に満ちていた。 「本当にそんなことができるのか」 「もちろんよ」  如月はそれから、ファンドの意義について理路整然と話し始めた。  しだいにぼくは、彼女の話に引き込まれ、聞き終わるころには、信じてみよう、自分もまだできるかもしれない、と思うようになっていた。 「あなたは変われる。まずは精密検査を受けて。うちの提携病院には一流の医者が揃ってる。あなたは何も心配することはないのよ」  その後、如月さんに連れられ、「フジヤマ・パートナーズ」が提携している病院に行き、精密検査を受けた。  医師は、検査結果が書かれた一覧表を見せながら、その意味を一つ一つぼくに説明してくれた。  保護者のように横に付き添ってくれていた如月さんは、柔和な笑顔の医者に向かい、 「先生、それでは、歩けるようにはなるんですね」と聞いた。 「なります」 「手は」 「完全に元通りになるでしょう。ずいぶんひどい医者に診てもらったようだね。ほとんど治療をしていないに近い」  モグリ医者の、酒焼けした顔が目に浮かんだ。 「しかしつらい治療になるぞ」  医者はぼくの覚悟を試すように言った。 「今までのことを思えば、何だって耐えられます」 「よし。君を信じよう」  医者はぼくに向かって右手を出した。 「よろしくお願いします」  医者の手を強く握り返した。  その手の上に、如月さんが手をのせる。 「私たちはこれからチームよ」  その日のうちに入院手続きが取られ、ぼくにあてがわれたのは、最上階の広い個室だった。 「こんなにいい部屋でなくても」  浴室や見舞い客用のベッドルームまで付いた豪華な病室に、気後れしていた。今まで寝ていた公園とは、あまりに違いすぎる。 「あなたの価値が上がれば、私たちだってメリットがあるのよ。だから今は、余計なことを考えず治療に専念して」  そのとき、中年の太った女の人が入ってきた。 「土屋さんよ。私は毎日来られないから、今後あなたの身の回りの世話は、全部彼女がしてくれるわ」 「よろしくお願いします」  ニッコリ笑って挨拶《あいさつ》はしたが、本音を言えば、かなり落胆していた。  忙しそうな如月さんが、今後も四六時中一緒にいてくれるとは思ってたわけではなかった。しかし代わってやってくるのがこの太ったおばさんとは、あまりにも落差が大きい。 「土屋です。よろしくお願いします」  エプロンが似合いそうな、庶民的な感じの人だった。 「インキン・タムシにインキンバスター君よ。ちょっと長い名前だけど、もうすぐ契約が切れるから、それまでは我慢して」  如月さんの説明に、土屋さんはぼくの名前を覚えようと、口の中で何度も「インキン・タムシに……」とつぶやいていた。  翌日、病室のテーブルの上には、電話帳のように厚いファイルが置かれていた。 「プランが決まったわ。よく読んで、頭に入れてちょうだい」  表紙には「インキン・タムシにインキンバスター(旧 青島裕二)氏バリューアッププラン」とある。  最初のページを見たとき、自分の目を疑った。 「インキン・タムシにインキンバスター氏の改造ポイント」  身長を十センチアップ。ウエストを十センチ減。筋力を増強し、上半身の逆三角形化。頭髪の三十パーセント増量。十五パーセント小顔化……」  驚いて言葉も出ないぼくに、如月さんが微笑みかけた。 「どう?」 「外見も変えるんですか」 「当然よ。人は見かけも大事なの」 「しかしこんなことが可能なんですか。背を伸ばすとか、顔を小さくするとか」 「現代の医療技術に、不可能はないわ。全身の骨格をいじるから、しばらく身動きが取れない状態が続く、でもそれを乗り越えれば、別人としての人生が広がるわ」  次のページは、すべての手術が完了した後の、ぼくの完成予想図が、CGで描かれていた。まるでモデルか俳優だ。 「本当にこんな風になれるんですか」 「もちろんよ」  完成予想図の横に、如月さんの姿を当てはめてみた。美男美女。お似合いのカップルに思えた。  如月さんの株価はどれくらいなのだろう。もしぼくの価値が上がって、如月さんの株価とつり合うようになれば、それが現実になることもあるのだろうか。  翌日から治療と改造が始まった。  両手両足はギプスで固められ、腰の骨と背骨のゆがみも矯正するために、ベッドに固定された。顔中に彫られた広告用のタトゥーはレーザー光線で消すことになったが、太ももの皮膚を一部移植せねばならなかった。 「目も覆うんですか」 「初期の白内障です。失明の心配はありませんから安心してください」  眼科の若い医者は言った。  繰り返し手術を受けた。医者は当初、事前に説明をしてくれたが、そのうちにどの部分のどういう手術をするのか知らされないまま、手術室に連れていかれるようになった。  どうせ説明を聞いても分からない、ぼくは医者と如月さんを信用していたので、不安はなかった。  たいてい寝て起きると手術は終わっていて、成功だったと告げられた。  目は見えず、首から下は麻酔をかけられまったく身動きがとれない生活が続いた。しかしあの俳優のような完成予想図に近づいているのだと思えば、そんなことなんでもなかった。     4 「じゃあイン・タムさんは、退院したら第二の人生が待っているんですね」 「そういうことになるね」 「もし婚約者だった方がイン・タムさんに会っても、もう分かりませんね」 「そうだろうね。あの完成予想図通りなら、まるで別人だから」  少し間があって、田丸さんは意を決したように言った。 「御免なさい」 「どうしたのいきなり」 「私、ちょっと興味があって、お二人のこと調べたんです」 「二人?」 「ええ、婚約者だった亜矢子さんと絵美さんのことを、昨日のお休みに」 「そう」 「聞きたいですか?」 「うん、まあ」 「絵美さんは、イン・タムさんが言っていた御曹司と結婚して、今はお子さんが一人。ご主人がお父様の会社を継ぐことが決まったそうです」 「そう」  未練があるわけではなかったが、少し複雑な気持ちだった。本来なら御曹司の位置に、自分が納まっていたのだ。 「亜矢子さんの方は、イン・タムさんと別れた後、イン・タムさんを忘れるために東京を離れて、地方の工場で働いていたそうです。でもその工場が不況で潰《つぶ》れてしまって、食べていくためにしばらく水商売をしていたようです」  亜矢子が? 彼女はどちらかと言えば地味なタイプだった。水商売をしていたなんて、意外だった。 「しばらくして亜矢子さんは、店の客だった男と暮らしはじめたんですけど、それがたちの悪い男で、亜矢子さんは知らないうちに犯罪の片棒を担がされるようになって、その男と一緒に逮捕されたそうです」 「本当?」 「ええ、男の方は有罪になって、その後、上場廃止になりました」 「亜矢子は?」 「彼女も上場廃止になるところを、危うくファンドに買われたそうです」 「そう……」  亜矢子もいったんどん底まで落ちて、ファンドに救われていたのか。期せずして彼女とぼくは、別れてからも同じような人生を歩んでいたことになる。 「そのファンドがしっかりした再生ファンドだったので、亜矢子さんは資格を取り、今、医療現場で働いています。医療と介護はどこも人手不足ですから」 「そうなのか、ぜんぜん知らなかったな」  別れた後、亜矢子がそんな暮らしをしていたなどとは、思ってもみなかった。彼女のことだから、自分とつり合った中小企業のサラリーマンとでも結婚して、つましいながら幸せに暮らしていると勝手に想像していた。  と言っても、別れてから彼女のことなど、ほとんど思い出すことはなかったのだが。 「今はお二人とも、それぞれの道を歩んでいらっしゃいます」 「うん。聞いてよかった。ありがとう」 「イン・タムさん」 「なに」 「もし、もしですよ、第二の人生を、彼女たちのどちらかとやり直せるとしたら、どちらがいいですか?」  二人の顔を思い浮かべた。  夫を支えるよい妻、という点だけで見れば、気が強くわがままで、派手な絵美に比べれば、家庭的な亜矢子だ。でも絵美と結婚すれば、父親の経営する会社をぼくが継げるはずだった。亜矢子と家庭を持っても、しがない一銀行員として人生を終えるだけだっただろう。 「やっぱり──」 「やっぱり?」 「絵美かな」 「そうですか」  田丸さんが、大きなため息をついた。 「どうかした?」  田丸さんは答えずに立ち上がった。その直後、大きな音とともにベッドが揺れた。 「どうしたの、大丈夫? ぶつかったの?」  また音がして、衝撃が来た。 「田丸さん?」  舌打ちが聞こえる。田丸さんがベッドを蹴っているのだ。 「亜矢子さんの話には、まだ続きがあるの」  田丸さんの口調が変わっていた。どこかつっけんどんな感じがする。 「ある日亜矢子は、勤めている病院の入院患者に昔の婚約者の名前を見つけた。彼女はその人の近くにいたくて、専属のヘルパーだった中年の女性と替わってもらった」 「…………」 「その中年のヘルパーの名前は、土屋」 「まさか、そんな」 「ようやく分かったの」  嘘だろ。信じられなかった。 「どうして……」 「がっかりしたでしょ、絵美さんでなくて」 「いや、そんなことは」  なぜ今まで気付かなかったのだろう。そう言われてみれば確かに亜矢子の声だ。 「だって今、私じゃなく、絵美さんを選んだじゃない」 「本心では亜矢子の方が──」 「この嘘つき野郎っ!」  田丸さん、いや亜矢子は、絶叫した。  感情を抑えようとしているのか、亜矢子が大きく深呼吸する音がする。 「がっかりしたのは私も同じ。もしかしたら裕二は、私を選んでくれるんじゃないかと、期待してたから」 「すまない」 「遅いわよっ」  うっ。顔に冷たいものがかかった。ぼくの頭の上で、ポットをさかさまにしたらしい。 「でもあの婚約破棄は、仕方がなかったんだ」 「何が仕方がなかったよ。自分の出世のことしか考えてなかったくせに。あ、ハエ」  今度はぼくの顔面を何かが打った。パンッと、いい音が病室に響く。ハエ叩きか。 「でもやっぱりあなたのヘルパーになってよかった。私を捨てた男の転落の軌跡を、本人の口から聞かせてもらったんだもの。おまけに最期まで見られる」 「最期、何のことだ」 「あなたの最期って意味よ」 「バカを言うな、俺はこれから別の人生を──」  亜矢子は声を上げて笑った。 「どこまでお人好しなの。あの『フジヤマ・パートナーズ』は、裕二が考えているような人たちじゃないの。あなたの体を切り売りしたいだけ」 「何を言う。現にこうやって手術までしてくれたじゃないか」 「単なる摘出手術よ。裕二の顔にはね、もう目がないの。眼球は二つとも売られちゃったのよ。それだけじゃない。あなたの体には両手も両足も、もう付いてない。またハエだ」  パンッ。うっ。 「嘘だ。麻酔が効いていて、動かせないだけだ」  何とか自分の手足の存在を確認しようとした。しかし首から下の感覚がまったくない。 「手足はもうないの。それを気付かせないために、麻酔をかけてるのよ」 「そんなこと信じられるか」 「さっき如月に、睡眠薬を飲ませておくように言われたわ。今日裕二を最終処分するつもりなのよ。あなたが絵美さんじゃなくて私を選んだら、助けてあげようと思ったけど。ばからしい。やめたわ」 「黙れ。お前は俺のことをまだ恨んでいるんだ。俺が復活するのが悔しいんだろう。それとも俺とよりを戻したいのか。ごめんだね。俺は自分の価値を上げて、如月さんみたいな女性をパートナーにするんだ。お前は分相応な男を見つけろよ」  やはりこんな女と結婚しなくて良かった。株価の低いやつは、人間としての品位も低いのだ。 「私の言うことが信じられなきゃ、自分の目で確かめてみることね。あら御免なさい。もう目はないんだった。睡眠薬を飲ませないでおいてあげるから、自分の耳で確かめなさい。ハエ」  パンッ。うっ。 「出ていけ。二度と俺のそばに来るなっ!」  ドアが開く音がし、ヒールの音に続いて幾人かが病室に入ってきた。  香水の香りがする。如月さんだ。 「インキン・タムシにインキンバスターさん」  如月さんがぼくを呼んだ。  亜矢子の言うことを信じたわけではないが、ぼくは寝たふりをしていた。 「インキン・タムシにインキンバスターさん」  応《こた》える代わりに、寝息をたてた。 「眠っているようです。では始めましょうか」如月の張りのある声がした。「お手元の資料をご覧ください。年齢は二八歳、男性。血液型はO型。しばらく入院させて、健康的な食生活をさせてありますので、内臓に問題は一切ありません。特記すべき病歴も無し。参考までに申し上げますと、一流大学を出て一流銀行に勤めるエリートでした。まあこれは商品の良し悪しには関係ありませんが」  笑い声が起こる。如月以外に、複数の人間がぼくのベッドを取り囲んでいるようだ。 「やけに小さいね」年配の男の声だった。 「四肢はすでに売却済みです。それに腎臓《じんぞう》の一つも成約済みですので」  え? 売却済みだって……。 「手足を売ったって、どこに?」 「大学の形成外科です。学生が骨折の治療を勉強する時の教材になります」 「いろいろ需要があるものなんだね」別の男が感心したような声を出した。 「江戸川乱歩の小説に、『芋虫』ってあったじゃないか。ちょうどこんな感じの」 「そうそう、確かあれは戦争で手足をなくしたんだったね」 「この人の場合は売られちゃったんだろ、手足を。何でもお金になる時代だから」  バカな。そんなバカなことが……。  やはり亜矢子が言ったように、ぼくの体に、もう手足はついていないのか。  ドッキリカメラだ。ここでぼくがパニクると、どこかからカメラが出てくるんだ。そうだ、きっとそうに決まってる。 「今日で、最終処分になります」  如月の冷たい声がした。 「分かった。うちで残りを引き取らせてもらおうじゃないか。虫垂も含めて」  一人の男の発言に、周囲でどよめきが起こる。 「ちょっと待ってくださいよ、Q大付属病院さん。うちにも移植待ちの患者はたくさんいるんだから」 「なんですかX大さん。この前は、手術を待ってるのが代議士だって言うから、おたくに譲ったんですよ。今回はうちでいただきますよ」 「P県立透析病院の山田です。一つ残ってる腎臓に興味があります」 「それはあんただけじゃないよ」 「うちだって今回は、腎臓の良い出物がないかと思ってここまで来たんだから」 「まあまあ、お静かに」と如月。「希望の多い臓器は、競売になります」 「保証は付いてるんだろうね」 「もちろんです。摘出後一年間、不具合があれば無条件でお取替えします」 「なかなかいい物を持ってるじゃないか。そうとう女を泣かしたんじゃないか」 「そんなところ触らないで」  如月が一喝する。  もう黙っていられなかった。「如月さん」  ぼくの声に病室が静まりかえる。 「起きてるじゃないか」  ぼくは覚悟を決めた。 「如月さん。これ、何かの冗談ですよね」  何も答えない。 「どうなんですか、如月さん」 「…………」  男が言った。 「いまさら隠してもしょうがないんじゃないの。競売で売り手が決まって、臓器を取り出したら彼はもうこの世とおさらばなんだから」 「確かにそうですね」  やはり亜矢子の言ったことは、本当だったのだ。 「ふざけるなっ。俺の体を何だと思ってるんだ」 「騒ぎ出したぞ」 「すぐここから出せ」叫んだ。「如月、騙《だま》したな!」 「ペンチ持ってきなさい」如月が命じた。  誰かが走り去る足音がして、すぐに戻ってくる。  その直後、口の中に何か硬い金属が押し込まれた。  抵抗しようとしたが、アゴがわずかに動くだけでは限界がある。すぐにそのペンチで舌をはさまれた。 「うっ」  ブチッという音がした。  口の中に血があふれる。 「窒息しないように、何かかませて」如月が怒鳴る。  口の中に管が押し込まれた。 「これ冷凍しておきなさい」 「ちょっと、如月さん。人間の舌なんて、何に使うんだい」 「駅前の牛丸さんが、買い取ってくれるんですよ」 「牛丸が? うへー、あそこのタン塩は、危なくて食えねぇな」 「案外おいしいんじゃないの」  如月の冷静な声が響いた。 「思わぬハプニングがありましたけど、商品の生きが良いことはお分かりいただけたと思います」  笑い声が起こった。 「本人の同意は得ていないようだが、法的には問題ないんだろうね」 「大丈夫です。この男の所有権は当ファンドにありますから」 「それなら安心だ」 「うー、あー、うー」舌を抜かれたぼくは、言葉にならない声しか出せなかった。 「それでは競売に入りたいと思います」 「あー、うー」 「まず腎臓からまいります」 「○○万円っ!」 「C大学病院様、○○万いただきました。他にございませんか?」 「△△万っ!」 「ありがとうございます。P県立透析病院様から△△万円、いただきました」 「うー、あー」 [#地付き]了   [#改ページ] [#見出し]  受 難  汗が頬を伝い、あごから落ちた。  湿気を帯びた空気が、ヒルのように皮膚に吸いついてくる。  目の前をネズミが走り、壁にはゴキブリが這《は》い回る。  蚊は飽きもせず、一日中俺の血管を狙っている。  のどがひりつく。  水をくれ。  食い物をくれ。  だれでもいい、俺を見つけてくれ。  俺がいるのは、都市に無数にある空間、薄暗くかび臭い、ビルとビルの間だ。  どのビルも壁はコンクリートがむき出しで、地面は簡易舗装すらされていない。壁際には側溝が走り、異様な色をした水が、ゆっくりと流れていた。  周囲には段ボール、錆《さ》びた自転車、壊れたテレビなどが散乱している。粗大ゴミや資源ゴミの、不法投棄場になっているらしい。  出入りするための鉄扉が二十メートルほど先にあるが、この二日間、だれも来ない。  そんな所に、俺は手錠でつながれていた。  どうやってここに来たのか、いくら考えても思い出せなかった。  目を覚ましたのは二日前、土曜日の昼ごろだ。まず自分のおかれた状況を理解するのにしばらくかかった。それから記憶をたどってみた。  前日の金曜日の夜は飲み会があり、三次会までつき合った。しかしはっきり覚えているのは二次会の途中までで、それ以降、ここで目を覚ますまでの記憶がすっぽり抜け落ちていた。  体の随所にあざがあり、上着とバッグがなくなっている。携帯と財布も見あたらないので、強盗にでもあったのかもしれない。  右手にはめられた手錠は金属製のしっかりしたもので、どうやっても抜けない。手錠の片方がつながれた鉄パイプは、地面から一メートルほど出てから直角に曲がり、壁の中に消えている。押しても引いても、一人の力では揺らすことが精いっぱいだった。  鎖の切れた手錠がもう一つ、鉄パイプにはまった状態で落ちていた。俺以外にも、ここで同じ目にあっていた人間がいたのかもしれない。  鎖の切り口をよく見ると、ねじ切られたのではなく、道具を使って切断されていた。  周囲のゴミの中を探せば、何か使えそうな物がありそうだったが、行動範囲が限られている。少なくとも、手に届くところに、鎖を切ることのできる道具は落ちていなかった。  手錠が外せないなら、手を切り落とさない限り、自力脱出は不可能だ。だれかに見つけてもらうしかない。  当然何度も大声で助けを求めたが、だれも来てくれない。  次に鉄扉に向かって石を投げてみた。当たれば鉄だけに大きな音がする。問題は、利き手である右手が使えないことだった。それに粘土質の土の上には、案外小石が少なく、手と足が届く範囲にある石は、すぐに投げつくした。  ビルの壁に耳を当ててみても、防音がしっかりしているのか無人なのか、物音一つ聞こえない。鉄扉まで投げるには重たすぎるコンクリートの塊で、壁をしばらく叩《たた》いてみたが、何の反応もなかった。  しかし正直に言えば、当初俺には、それほどの危機感はなかった。  どこにいるのか正確には分からない、しかし人跡未踏の山の中でないことだけははっきりしている。鉄扉の外はまったく見えないが、大通りが走っているようで、絶えず車の行き交う音がしていた。近くで聞こえるビルの解体工事の音も、そこに人がいることを教えてくれた。取り囲んでいるビルの一つの、四階にある小さなはめ込み窓に、人影を見たこともあった。  住人、管理人、清掃業者、テナントの従業員、すぐにだれか来るさ。  そう考えていた。  しかし陽が暮れるころになると、その楽観も焦りに変わった。  こんなところでもう一晩過ごすのか。冗談じゃない。  もう一度、手錠から手を抜こうとしたが、手首に擦り傷を作っただけだった。  緊急事態だ、壊しても構わないと、コンクリートの塊で力まかせに鉄パイプを叩いた。ガス管かもしれないが知ったことではない。しかし壁から外れなかった。  やむことのないビルの解体工事の騒音は、俺から大声で助けを呼ぼうという気力を奪った。おまけに解体工事が夕方に終わると、入れ替わるように表の通りで道路工事が始まった。  車の走行音、救急車のサイレン、工事の音、人は近くにいくらでもいる。しかしだれも俺に気づかない。  とうとう土曜の夜もここで越した。  日曜になっても状況は同じだった。変わったのは、俺の空腹感と渇きが、限界に近づきつつあるということだけだ。  座っている時間が長くなり、暑さのせいもあって、時折意識が朦朧《もうろう》とした。それでも壁を叩き、助けを呼ぶことは断続的にだが続けていた。  夕方、鉄扉の外で人の話し声がした。よく考えれば、これほど距離があって本当に聞こえたのかどうかは疑問なのだが、そのときは確かに聞いた気がした。 「助けてくれ」  昼間から叫びすぎて、のどが焼けるように痛み、声がかすれていた。  投げる物を探したが、手ごろな大きさの石は投げつくしている。  足元の側溝に目が行った。石ぐらい沈んでいるはずだが、少し躊躇《ちゆうちよ》した。この二日間、そこは俺の便所になっていたからだ。しかし意を決して気味の悪い色をした水に手を突っ込み、ぬるぬるとしたヘドロの中を手で探っていると、中指の先に刺すような痛みを感じた。十センチほどの、先の尖《とが》ったガラス片が沈んでいたのだ。指先をわずかに切っていた。  血を出してまで拾った小石を、鉄扉に投げてはみたものの、命中したのは半分ほどで、それも結局、何の効果もなかった。  そしてとうとう、今朝を迎えた。  だれも来ないのは、土日だからだ。月曜になれば、ビルに入る会社の社員が出勤してくるだろう。すくなくとも管理人か清掃係ぐらいやってくるに違いない、この二日間、そう自分を励ましてきた。  しかし午前十時をまわっても、鉄扉が開くことはなかった。頭に来て、コンクリートの塊を両手で持ち、壁に何度も叩きつけた。  ビル解体工事の音だと思っているのか、人がいないのか、塊をどんなにぶつけても、相変わらず何もおこらなかった。それでもしばらく続けていたが、右手首の痛みに耐えられなくなり、やめてしまった。手錠と擦れて、右手首の皮膚がやぶれ、化膿《かのう》し始めていた。  正午をまわっても、人は来ない。気温は上昇し、何もしなくても汗が出てくる。  俺がいなくなったことに、だれか気づいていないだろうか。  郷里の両親は、俺が三日くらいアパートにいなくても気づかないだろう。携帯には、緊急のとき以外電話するなと言ってある。  会社?  もっと期待できそうもない。  俺は派遣社員をしている。八年前大学を卒業したが、不況のど真ん中でどこにも就職できず、フリーターになった。いつまでもこのままではまずいと、二年前に派遣会社に登録していた。  金曜日の飲み会は、俺の会社と派遣先との契約が切れ、あの日が最後の勤務だったために、一年間一緒に働いた人たちが開いてくれた、送別会だった。  来週からは新しい派遣先が決まっている。この一週間は、どこか気の向くまま旅行でもするかと考えていた。だから会社は、来週まで俺がいないことに気づかない。  しかしもし気づいたとしても、捜してはくれまい。会社から見れば俺など、あてにならない最近の若者の一人に過ぎない。連絡が取れなければ、穴を空けないために代わりのヤツを見つけて、忘れてしまうに違いない。  ミカは?  金曜の飲み会の途中、酔った勢いで久々に電話していた。  素直に謝った。俺にとってどんなにミカが必要か、気がつくと居酒屋のトイレで懸命に訴えていた。 「少し時間が欲しい」と言われた。  非は俺にある、彼女の答えを待つしかない。しかし声の感じから、あまり希望があるとは思えなかった。  やはり自力で脱出するか、だれかに偶然発見してもらうしか、ここから出る方法はない。自力とは言っても、もはやできることは限られている。  いよいよやばくなったら、この側溝を流れる水を飲むしかないのか。  水はひどい色をしている。もしこの水を飲めば、体にどんな影響があるか分かったものではない。しかし干からびて死ぬ間際なら、そんな冷静な判断などできまい。限界に達した人間が、人の肉を食べたという例はいくらでもある。  自分の意識の中では、のどの渇きは限界に近いが、まだこの水に嫌悪感を抱くということは、それだけ余裕があるということなのかもしれない。  そんなことを考えていたとき、この二日間、待ち続けていたことがおこった。  鉄扉が開いたのだ。  反射的に立ち上がった。すぐにバランスを崩し、ひっくり返る。手錠のことをすっかり忘れていた。  尾てい骨をしたたかに打ったが、痛みなど感じなかった。ようやくここから出られるのだ。  鉄扉の前には、制服を着た女が一人立っている。OLらしい。  向こうも俺に気がついて、銃でも突きつけられたように、その場に立ちつくしている。  鉄扉まで距離があり薄暗いために、顔まではよく見えない。 「助けてくださいっ」  口の中が乾ききっていた。声もかすれている。  俺の声で我に返ったのか、動かなかった女が、後ずさりを始めた。 「怪しい者じゃありません、助けてください!」  女の背中が鉄扉についた。  当然だろう。こんな薄暗いビルの間に男がいて、それも「助けてくれ」と叫んでいる。怪しまない方がおかしい。 「警察を呼んでください。本当に怪しい者じゃありません」  女は逃げるように出ていった。そのとき、一瞬だが鉄扉の外が見えた。やはり車の往来が激しい大通りだった。こんな所でいくらわめいたところで、俺の声などだれの耳にも届かなかったわけだ。  しかしもう大丈夫だ。安堵《あんど》して腰を下ろした。  おそらくこのビルに、あの女の勤め先があるのだろう。たとえ一一〇番通報をしなかったとしても、変なやつがいると、会社の同僚か上司には報告するはずだ。そうすればだれか様子ぐらい見に来るにちがいない。  救出されたときのことを考えて、自分の身なりを確認した。ひどい状態だ。ワイシャツとズボンのほこりを払った。ヒゲはどうしようもないが、髪は手櫛《てぐし》で整え、顔をハンカチでぬぐった。  自然と笑みがこぼれる。  冷えた生ビールを樽《たる》ごと飲んでやる。  食べたい物のリストが、頭の中でどんどん増えていった。  しかし一時間たってもビルの警備員が入ってくることも、パトカーのサイレンが聞こえてくることもない。  嘘だろ。  何度も地面を蹴《け》り、口を極めて名も知らぬ女をののしった。  こんなことがあるか。  涙が出てくる。  結局、辺りが暗くなっても、だれもやってこなかった。  道路工事で使う重機の振動が、尻《しり》に伝わってくる。  疲れていたのか、知らぬ間に眠っていた。腕時計を見ると、まだ午後十時過ぎだった。  背後で、何かが動く気配を感じた。  鉄扉が開いた音を聞いた覚えはない。眠っていて、気づかなかったのだろうか。  表通りからわずかに差し込んだ光が、ぼんやりと人影を浮かび上がらせている。逆光で顔までははっきり見えない。  距離およそ十メートル。影は暗闇からじっと、こちらの様子をうかがっている。 「あの」声をかけた。  影はビクッと体を震わせると、鉄扉に向かって戻ろうとする。 「待ってください」  影は止まった。 「怪しい者じゃありません。助けてください」  また影は、ごそごそと動き出した。 「待ってください。警察を呼んでください」  しかし止まろうとしない。 「ちょっと待てよ。俺を見捨てるのか!」  影が鉄扉を開けて表通りに出るとき、街灯と車のライトを浴びて、姿が見えた。  昼間来た女だった。 「バカヤロウ」  鉄扉に向かい、怒鳴っていた。  翌朝、目を開けると、すぐそばにあの女が立っていた。  すぐに飛び起きた。右手を伸ばし、女に一歩でも近づこうとした。  女はあわてて後退する。 「待って」  俺は左手を前に出し、もう一度言った。「待って」  女は警戒しながらも、その場に止まった。  自分を守ってくれと神に祈りでもささげるように、女は胸の前で手を組みあわせている。  二十代前半、もしかしたら十代かもしれない。目を見開いて俺を見ている。色白で化粧はほとんどしていない。小柄で童顔なため、会社の制服を着ていないと、OLというよりも女子高生だ。  俺は女に逃げられまいと、必死だった。 「ぼくは犯罪者じゃあありません。会社勤めをしている普通の男です。たちの悪い連中にからまれて、携帯と財布が入ったバッグを奪われました」  犯罪被害者であることを強調しようとした。  女は小さな声で何か言ったが、まったく聞き取れない。 「え、何です?」  女は答えず、手錠をじっと見ている。 「手錠です。本物じゃあないだろうけど、鉄でできていて簡単には壊れない。だからあなたに危害を加える心配はない。あなたにこれを外してくれとは言いません。警察を呼んでくれればいいんです。こんなことを言うくらいだから、ぼくが警察から逃げているわけじゃないことはお分かりでしょう。もし関わりあいになることがお嫌なら、携帯を貸してください。ぼくが電話しますから」  言うことを聞いていないのか、相変わらず何やらつぶやき続けている。 「分かります。こんなところに男が手錠でつながれてる。変に思うのはよーく分かります。それでもあなたはここまで来てくれた。この通りです」  彼女に向かい、左手だけで合掌する仕種《しぐさ》をした。 「あなたはきっと勇気がある人だ。その勇気をもう一度ふりしぼっていただいて、警察に連絡してくれませんか」  やはり女は、俺の言うことに反応しなかった。  俺を上から下まで舐《な》めるように見てから、バッグの中から文庫本を取り出し、ページを繰りだした。 「その本は何ですか」  間抜けな質問だと思ったが、とにかく会話の糸口が欲しかった。  女はあるページで手を止めると、俺とその本を何度も見比べている。  何してんだよ、こいつ。  イライラしたが、脅《おび》えさせるわけにはいかない。おそらく今年高校を卒業したくらいの年齢だろう。どうしていいか分からないのだ。 「困ってるんです。だから助けてください。金曜日から飲まず食わずで、もう限界なんです」  女はハッとして、「金曜日、やっぱり……」と、ようやく聞き取れる声を出した。 「金曜日が何です?」  自分の言葉を聞かれたことを恥じたのか、また声を落としてしまった。 「携帯はお持ちじゃないんですか」  その場で、警察に通報させたかった。 「見てください、怪我をしているんです。化膿《かのう》している。治療しないと、大変なことになるかもしれない」  側溝に手を入れた時の傷が、化膿していた。女に向かってその指先を出した。  しかしこちらを見ようともせず、何やら熱心に先ほどの文庫本に目を落としている。 「だれか呼んできてください。お願いします」  女は何か思いついたように本を閉じると、突然鉄扉に向かって駆け出した。 「ちょっと待って。警察に連絡してくださいね」  二度と俺を見ようとはしなかった。祈るような気持ちで後ろ姿を追っていると、女は俺と鉄扉のちょうど中間あたりで、幅跳びのように一メートルほど跳んだ。  なんだ? あそこに水|溜《たま》りでもあるのか。  俺の位置から見えるのは、地面から三十センチほど出ている、細い竹の棒だけだった。  また、だれも来ない。だれも。  警察官も、救急隊員も、ビルの管理人も……。  怒る気力すら残っていなかった。  それでもあのおかしな女に一縷《いちる》の望みを託し、パトカーか救急車が近づいてくる音を、騒音の中から聞き分けようとしていた。  しまいには、サイレンの音が、耳鳴りのように絶えず聞こえているようになった。  何度ぬぐっても、汗が目に入る。日陰で湿気が多いせいか、蚊は絶えず襲ってくる。解体工事の音は一日中やまない。気が変になりそうだった。  女が戻ってきたのは昼ごろだった。勤務中なのか、昨日来たときと同じように髪を後ろに引っ詰め、淡いグリーンの制服を着ている。  はらわたが煮えくり返る思いだったが、今はこの変な女しか頼るあてがない。 「警察には連絡してくれたんですか?」  穏やかな口調で、笑顔も作った。  女は答えず、はにかんだような顔で、持っていたコンビニの袋を俺の前に置いた。  なんだこれは。差し入れのつもりか。 「あんた助けてくれる気はないのか」  まったく反応がなかった。しかし女の目は、脅えというよりも、好奇心に満ちているようにも見えた。 「お願いします。助けてください」  俺の必死の叫びも通じなかった。女は今朝と同じように、竹の棒のある位置で一メートルほど跳んで、帰っていった。  コンビニの袋だけが、俺の前に残されていた。その口からペットボトルのフタがのぞいている。  水だ。  中には、ミネラルウォーターとミックスナッツの袋が入っていた。  のどが鳴り、次の瞬間にはペットボトルを口にくわえていた。干からびた細胞の一つ一つに、水分が浸透していく。状況を考えれば、少しずつ飲むべきだったが、そんなことに思いが至ったのは、飲み干した後だった。  ナッツもむさぼるように口の中に放り込み、やはり一気に食べてしまった。袋に残った小さなカスまで手のひらに落とし、吸い込んだ。最後は袋の中と、手についた粉も、汗と一緒に舐め取った。  満腹とはとても言えないが、とりあえずひと心地はついた。  あの女は何を考えているのだろう。  多少余裕ができて、またその疑問が湧いてきた。  言葉が通じないのか?  いや、「やっぱり」とか「金曜日」とか、確かに口にした。  ねじが一本足りない?  一本どころではないようだが、その可能性が高い。俺が自分の意思でここにいると、勘違いしているのかもしれない。この水とミックスナッツも、やはり差し入れのつもりなのか。  コンビニの袋に、四角いピンク色のものが透けている。先ほどはチラシかと思い、気にも留めなかったが、引き寄せて確認すると、それは封筒だった。 「はじめまして、ひろ子といいます。  みんなからは、『ひょこたん』と呼ばれています。(笑)  二度も介助者に選ばれるなんて、光栄です。  がんばります。  よろしくお願いしまーす。 ひょこたん」  めまいがした。  猫のキャラクターがついた便箋《びんせん》に、いかにもあの女が書きそうな丸文字が並んでいる。星やハートのシールまで余白に貼《は》られていた。  やはりネジが一本外れていて、俺が置かれた窮状が理解できないのだろうか。  しかし食い物と水を持ってきてくれたということは、飢えていることは分かっているようだ。接する態度も奇妙だとはいえ、敵意を抱いているようには見えない。この手紙も、何やら俺の面倒を見ようとしているかのように取れる内容だ。  もう一度手紙を読み返す。  ──二度も介助者に選ばれるなんて、光栄です──  介助者?  まさかあの女が俺をここへ?  顔はかわいい。いわゆる萌え系アイドルといった雰囲気で、その手の女が好みなら声をかけたくなるだろう。俺のタイプではないが、金曜日はかなり酔っていた。もしかしたらスケベ心を出して、あの女にこんなところへ連れ込まれ、手錠をはめられたのではないか。  あんな虫も殺さないような顔をしているが、監禁プレイやペットプレイを好む、変態なのかもしれない。  もしあの女が俺を監禁したなら、この手紙は有力な物的証拠になる。ここから出たら警察に突き出してやる。  俺は手紙をコンビニの袋に戻し、雨などで濡れないようにその口を折りたたんだ。  パラパラという音がする。四六時中、なんらかの騒音のする場所だが、聞きなれない音だった。寝返りを打つと、今度は体の上で、鳥の羽ばたくような音がした。  寝ている間に、ビニール傘が頭を覆うように置いてあり、体にもレジャーシートが掛けられていた。その上に雨が落ちていたのだ。  足元には、昨日と同じコンビニの袋が置いてあった。  ひょこたんと名のるあの女が来たのだ。午前八時をまわっている。出勤前に寄ったに違いない。  コンビニの袋の中は、相変わらず水とミックスナッツだった。水は昨日より大型の、一リットル入りのペットボトルになっている。  傘の中に身を隠すようにして、アーモンドを口に放り込んだ。もしあの女が来なかったら、この雨に歓喜し、天に向けて大口を開けていたことだろう。  だからと言って、あの女を許す気は毛頭ないが。  袋の底には、また封筒が入っていた。 「今日は朝から雨です。  いくら暑いからって、雨に濡《ぬ》れると、風邪ひきます。  大事な使命をはたすまえに病気にならないよう、気をつけてくださいね。 ひょこたん」  便箋の余白には、ご丁寧に俺のイラストまで描かれていた。三頭身にディフォルメされた俺が、笑顔で手錠につながれ、傘の下に入っている。  大事な使命? いったいなんのことだ。  常識では割りきれない行動原理を持っているようだ。  昨日に引き続き今日も水や食い物を持っていたということは、生かしておくつもりなのだろう。やはりあの女がこの手錠をかけたのか。  鉄パイプに残されていた手錠の片方を手に取った。俺の手錠と同じもののようだ。どうやって鎖を切ったのだろう。まさか金ノコを持って、ここに来たわけではあるまい。  やはりだれかに発見されたに違いない。  神は俺を見捨てなかった。  その日の午後、学生服を着た中学生くらいの男の子が、鉄扉を半分ほど開け、中を覗《のぞ》き込んだのだ。  たまたま俺は鉄扉のほうを見ていたので、すぐに気がついた。 「オーイ」  その日の解体工事の音は、いつにもましてすさまじかった。しかし少年は鉄扉の中に顔を突っ込んでいたため、俺の声が聞こえたらしい。ガラクタの山の奥にいた俺を、驚いた顔で見ている。 「助けてくれー」  さらに声を張り上げ、左手を大きく振った。  それが奇妙な行動に見えたのか、少年は半分体を中に入れたまま、戸惑っている。 「手をつながれていて、出られないんだ、助けてくれ」  こんな機会はいつ来るか分からない。それはいやというほど思い知っている。必死だった。 「怪しい者じゃない」  少年は恐る恐る、入ってきた。 「安心してくれ、俺は動けない。君に危害は加えないよ」そう言って、右手の手錠を少年に見えるように掲げ、引っ張って見せた。鉄パイプと手錠がぶつかり、音をたてる。  少年はもどかしくなるほど時間をかけて俺の二メートルほど前まで来た。 「ご覧の通り、困ったことになってる。助けてくれ」  少年の顔色は青白く、針金のように痩《や》せている。草食動物のように瞳をせわしなく動かし、けっして俺の目を正視しようとしない。背丈から中学生かと思ったが、ブレザーの胸にあるワッペンには「high school」と刺繍されていた。 「高校生?」  少年はうなずいた。 「警察を呼んでもらえないかな。携帯持ってるよね」 「持ってない。学校で禁止されてるから」  学校で禁止されていようが、高校生だったら持ってるだろ普通。まあ、この気弱そうな少年なら、もしかしたら律儀に校則も法律も守っているのかもしれない。 「君、名前は?」 「ケンタロウ」 「そうか、じゃあケンタロウ君。お巡りさんを呼んできてくれ、近くの交番でもいいし、交番に行くのがいやだったら、その辺にいる大人にたのんでくれてもいい」 「俺が?」と、少年はわずかに口をとがらせた。  お前しかいないだろ。なんだその態度は。こんな状況におかれた人間を目の当たりにして、なんとも思わないのか。 「たのむよ。本当に困ってるんだ」 「でも、どうしてこんな所にいるんですか?」  探るような目だった。 「酔っ払っていてよく覚えていないんだ」 「本当に何も覚えていないんですか?」 「ああ、ただ犯罪に巻き込まれたようでね、だから警察を呼んでくれ」  ケンタロウは、顔の吹き出物をいじりながらしばらく考えた後、小さくうなずき、出ていった。  大丈夫だろうか?  高校生とはいえ、いかにも頼りない感じだった。  不安は的中し、三十分たっても戻ってこなかった。  あのガキ。  絞め殺してやる。ここから出たら、絶対に絞め殺してやる。いや、まずひょこたんと名のる、あのふざけた女からだ。  雨が止み昼過ぎから陽が出たせいか、強烈な蒸し暑さだった。それがまた、イライラを倍化させる。  ケンタロウが戻ってきたのは、一時間以上たってからだった。  彼の姿を見たとき、数秒前まで抱いていた憎悪は一瞬にして吹き飛び、全財産をくれてやってもいいとさえ思った。  しかしなぜか、一人だった。警察官を連れてきた様子はない。 「おい、だれか呼んできてくれたんじゃあないのか」  何も答えない。一抹の不安がよぎる。  ケンタロウの手元を見ると、大型雑貨店の袋を持っていた。 「それは?」  やはり何も言わずに、妙な形をしたハサミを袋から取り出した。 「金属も切れるって。売り子のおじさんが言ってたから」と独り言のように言って、ケンタロウは俺の横にしゃがみ、手錠の鎖を手に取り確認するように見ている。  売り子? 実演販売員のことか。金属が切れるといっても、せいぜい薄いブリキ板ぐらいだろ。それはいわゆる、万能バサミだった。  ケンタロウはそのハサミで、手錠の鎖を切るつもりらしく、懸命に力を込めている。顔はみるみる上気し、額から汗が噴出した。  何てバカなんだ。 「すこし無理じゃないかな」怒りで声が震える。  その声に、顔を歪《ゆが》めるほど力を入れていたケンタロウは、力を抜いて俺の顔を見上げた。 「この手錠は、プラスチックのおもちゃじゃない。そんなものでは切れないよ」  怒っていることを少年に悟られまいと、なんとか笑顔を作った。  そしてケンタロウの肩に手を置き、知性などまるで感じさせない、そのドロンとした目を覗きこんだ。 「よーく聞いてくれ。こんなハサミでは、手錠の鎖は切れない。見てごらん、傷一つついていないだろう。だから警察を呼んできてくれ」  しかしあくまでも、そのハサミで切ろうと考えているらしく、鎖に向かっていく。 「ケンタロウ君。無理だ。頼むからお巡りさんを呼んでくれ。そうしてもらうのが一番早い」  まるで聞いていなかった。俺を無視し、ウンウン言いながら力を入れている。  うんざりだった。  あの女にも、このバカにも、暑さも、騒音も、湿気も、臭いも、手錠も……。 「さっさと、だれか呼んでこいっ!」  声を荒げていた。  しかし少年は「でも、もう少しやれば……」とはっきりしない口調でつぶやき、あきらめようとしない。 「無理だと言ってるだろう」  やめさせようと、腕をつかんだ。  その手を払おうとしたケンタロウの肘《ひじ》が、俺の鼻を直撃した。  一瞬目の前が真っ暗になり、鼻を押さえ、その場にうずくまる。  ケンタロウも自分のしたことに驚き、口を開けて呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしている。  鼻から出た血が指の間から滴り、下水に落ちた。汚水に混じる自分の血を見たとき、俺の中で何かが壊れた。 「このバカ。そんなモンじゃ切れねぇって言ってんだろ。とっとと警察を呼んで来い。グズ」 「グズ……」 「ああグズだ。お前はどうしょうもないグズだ。それがどうした」  ケンタロウの顔は青ざめ、全身は震えはじめた。 「グズって言うな」 「グズはグズだ。そう言われたくなかったら、さっさと呼んでこい」  突然ケンタロウは奇声を上げ、目の前で両手を振り回しはじめた。  右手にはハサミを持っている。こちらは逃げようにも手錠でつながれている。ハサミに気をとられていると、ケンタロウの左拳が俺の顔面にあたった。  人を殴った経験などなかったのだろう。ケンタロウは突然動きを止め、自分の左手と俺の顔を交互に見比べている。  俺は殴られた右目を押さえ、にらみつけた。  ケンタロウはしばらく戸惑っている様子だったが、しだいに不敵な笑みを浮かべだした。  なんだこいつ。今までのオドオドした態度はどこへいったんだ。 「おい」  ケンタロウがハサミの切っ先を俺に向けた。 「さっき俺のことを何て言った。もう一度言ってみろ」  答えずにいると、いきなりハサミで突いてきた。鼻先数センチを刃が通り過ぎる。よけなければ、まちがいなく顔に突き刺さっていた。 「何て言ったんだよっ!」  まだ声変わりもしていないような、甲高い声だった。それがこの青白い少年を、いっそう不気味に見せた。 「言えよ」  目が血走っている。 「グズ」 「もっと大声で言えっ」 「グズっ」 「俺はグズじゃねぇ。俺はグズじゃねぇぞ」  俺の鼻先で、ハサミの刃を威嚇するように振った。 「言ってみろ」 「え?」 「俺はグズじゃないと言えっ」 「君はグズじゃない」 「もう一度!」 「君はグズじゃない」 「グズはお前だ。マサハル」 「マサハル?」 「お前はマサハルだ。そうだろっ」 「そうだ。俺はマサハルだよ。落ち着け」 「落ち着いてるさ。何ビビってんだよマサハル。俺が怖いのか」 「…………」 「俺が怖いって言え」 「ああ、君が怖い。ケンタロウが怖いよ」 「じゃあ謝れ」 「なにを……」 「女子更衣室から、サトミの体操着盗ませただろ。忘れたとは言わせねぇぞ」 「サトミの体操着盗ませて悪かった」 「携帯をとったことも謝れ」 「ごめんよ。ケンタロウ」 「携帯を返せ」 「ああ、返すよ」 「よし、正座して目をつぶれ」  俺は言われるままに正座をし、目を閉じた。目の前からは、ケンタロウのゼーゼーという荒い息づかいだけが聞こえてくる。  いつ万能バサミを突き立てられてもおかしくないと覚悟した。それほど少年の様子は尋常ではなかった。  ケンタロウは、クックッと笑いながら、正座している俺の頭の上から、持っていたコーラをかけた。 「おいしいコーラありがとうだろ」 「おいしいコーラありがとう」 「死ぬまで正座してろよ」と言い残し、ケンタロウは出ていった。  コーラと汗でべとべとになった髪を、掻《か》きあげた。  ペットボトルの水が残っていたが、貴重な水を洗髪などに使うわけにはいかない。それに俺の全身は、もう汗と泥まみれだった。いまさら少しのコーラがかかったところで、どうということはない。  それよりも、二人の人間に発見されながら、ここを出る目算がつかないという現実を受け入れる方が、はるかに難しかった。 「あんたいったいどういうつもりなんだ」  翌朝、顔を見るなり、女を怒鳴りつけた。  女はまた口の中でつぶやき始める。 「あんたが俺をここに閉じ込めたのか。目的は何だ」  俺がいくらわめいても、女は口元に笑みすら浮かべ、まるで憧れのアイドルを見るように、目を輝かせている。 「すぐにこの手錠を外せ、今なら警察にも言わないと約束する」  女はあわててバッグに手を突っ込むと、携帯を取り出した。  こいつ俺の言うことが聞こえていないのか。 「俺はここから出たいだけなんだ。いいか、俺の話をよーく聞けよ。今すぐ、今すぐ、この手錠を外せ」  女は俺を携帯のカメラで撮影し始めた。 「何してんだこのバカ、撮るんじゃねぇ」  目を爛々《らんらん》と輝かせ、俺の周囲を回りながら、何枚も撮っている。  撮影することに夢中になった女は、俺に近づいてきた。携帯を奪えるかもしれない。  女に気づかれないように、目測する。いけると判断した瞬間、左手を伸ばした。指の先が触れた。しかしあと数センチ届かず、手で携帯を払ってしまった。携帯が女の手から離れ、地面を転がる。  女は驚いて携帯を追った。  奪うことはできなかったが、女に一矢を報いた気がして、思わずほくそえんだ。女の狼狽《ろうばい》振りも、おかしかった。  女は俺に背中を向けてしゃがんでいる。携帯が壊れていないか確認しているのだろう。しばらくすると肩が揺れだした。泣いているらしい。 「壊れたのか。ざまあ見ろ」  もちろん同情する気も、詫びる気もない。  ゆっくりと立ちあがると、女は小さな背を丸め、洟をすすりながら歩き出した。それでも、例の場所でのジャンプは忘れなかった。  女が消えてしばらくすると、急に不安になった。やはり機嫌を損ねたのはまずかったか、一週間近くいて、彼女以外、ここを覗《のぞ》いたのはあのケンタロウだけだ。もしあの女が来なくなれば、俺は飢え死にだ。  このかび臭い薄暗い場所で、小便を飲み、排泄物を食いながら痩《や》せ細って死んでいく自分の姿を想像した。死体はネズミに食いちぎられ、散乱した俺の骨が発見されるのは、数年後かもしれない。  命綱を自ら切ってしまったか。  コンビニの袋をつかむと、指先から電気が走ったような痛みを感じ、思わず手を離した。傷ついた指の、第一関節から先が変色している。治癒に向かっていないことは明らかだった。  手錠ですり切れた右手首には、靴下を巻いている。けっして衛生的とはいえないが、手錠が少し触れただけで、痛みを感じるようになっていたからだ。 「暑いです。蒸し蒸ししてますね。  いやな季節です。  でもいよいよ明日からスタートです。  ひょこたんを信じて、ファイト! ひょこたん」  明日から何がスタートするっていうんだ。  あの女が何をたくらんでいるのか、まったく分からない。  あいつが俺をこんな所に閉じ込めたのなら、食料と水を与えておいて、何も要求してこないのはなぜだ。要求どころか、会話すら一度も成立したことがない。  そしてずっと気になっていたことがある。あのジャンプだ。  俺のいる位置から見る限り、あの女が行き帰りにジャンプする場所に、水|溜《たま》りもネズミの屍骸《しがい》もない。竹の棒らしきものが一本突き出ているが、あんな細い棒一本、避けて通ればすむことだ。  現にケンタロウは、あの場所を普通に歩いて通過している。  小学校時代の、同級生のことを思い出した。  そいつは通学路の途中にあったあるマンホールのふたを、絶対に踏まないと決めていた。いくら聞いても、なぜそんなことをするのか言おうとしなかった。  ある日、そのマンホールのふたを、「自縛霊ゾーン」と名づけていることが、そいつが授業中にコソコソ書いていた、「霊界通信」なるノートから判明した。いじめっ子がおもしろがり、無理やりそのふたを踏ませてみると、そいつは次の日から学校を休み、そのまま転校してしまった。  勉強もスポーツも出来ず友達もいない、教室の隅で心霊写真を見ながらニヤニヤ笑っている、気味の悪いやつだった。  女のジャンプも、あの場所を踏むと良くないことがある、といった、あいつだけのこだわりに違いない。  あそこはあの女の、「自縛霊ゾーン」なのだ。  翌朝、起きてみるとすでに女は帰った後だった。  昨夜は、あの手紙のことが気になって、なかなか寝つけなかった。  ──いよいよ明日からスタートです──  何がスタートするのか。それを問いただすために、そのまま寝ないで女が来るのを待っているつもりだったが、知らぬ間に眠り込んでしまったようだ。  それでも女は、昨日のことをそれほど気にしていないのか、コンビニの袋はちゃんと置いてあった。ひとまずは安心だ。  しかし袋の中を見て、息をのんだ。  ナッツがない。  中には、水が三本とピンクの封筒だけしか入っていなかった。  なぜミックスナッツが入っていないんだ。  水がいつもより二本余分に入っている。ナッツの代わりに水で我慢しろということなのか。嫌がらせだ。携帯を壊した俺に、お仕置きをしているつもりなのだ。  失ってみて、あのミックスナッツの袋一つが、体力面だけでなく、精神面でもどれだけ自分を支えていたかを知った。 「涙を流すなんて、ダメなひょこたん。  ごめんなさい。反省してます。  今日はいよいよスタートの日だというのに……。  恥ずかしかったです。グスン。  介助人しっかくですね。  土日は来られないから、三日分のお水を入れておきます。  がんばってください。 ひょこたん  ピーエス。安心してください。けーたいは直りました」 「これっていい曲だよな」 「私も好きだよ」 「そうなんだ。よく聞くけど、なんていう曲だろう」 「知らないの? すっごく有名なんだよ」 「そうなの?」 「そうだよ。信じられない。ハハハ」  ミカが笑ってる。  そこで目が覚めた。  夢か。  いや、曲は確かに流れている。  夢じゃない。  すぐ近くで聞こえる。俺の携帯の着メロだ。それもこの着メロは、ミカからの電話だ。  立ち上がり、あたりを見渡したが、どこにも俺の携帯は見当たらない。  すると着メロが消えた。  間違いない。どこかに俺の携帯がある。散乱しているガラクタ一つ一つに、視線を走らせた。  また着メロが鳴りはじめる。  音がするのは、俺がつながれている場所より、さらに奥だった。おそらくあの倒れている洗濯機の裏側あたりだろう。とても手が届く位置ではない。  歯噛《はが》みした。ミカが俺に電話してくれているんだ。  俺はここにいる。  体を伸ばし、少しでも携帯に近づこうとした。  大好きな曲だった。こんな状況で聞くと、よりいっそう心に沁《し》みた。  涙が出る。  曲が止まった。  膝を折り、手をついて、湿った地面に額をこすりつけた。 「ケンタロウのズボンを皆の前で下ろして悪かった。謝る」 「それだけじゃねぇだろっ!」  鉄パイプが顔の横に振り下ろされ、跳んだ泥が俺の目に入った。 「女子の前で、パンツまで下ろしたろ。悪いと思ってんのかよ、マサハル!」 「思ってる」 「ちゃんと謝れ」 「この間はパンツを下ろしてゴメン」 「もう一回」  俺に何度も土下座をさせ満足したのか、来た時はいきり立っていたケンタロウは、落ち着きを取り戻していた。  こいつが俺を解放しようとしない理由は唯《ただ》一つ、自分よりも弱いものがほしいからだ。  壊れたテレビの上に座り、ケンタロウは煙草を吹かしている。大人ぶりたいんだろうが、腺病質《せんびようしつ》なガキに、煙草は似合わない。 「俺にも一本くれないか」  意外にも、何も言わずにマルボロのボックスと百円ライターを放ってよこした。 「高校生だろ。煙草なんか吸っていいのか」  ケンタロウはつまらないことを言うな、という顔で、こちらを見ようともしなかった。  久し振りの一本は美味《うま》かった。脳がしびれるような感じがする。  すぐに煙草をくれたということは、機嫌がいいのかもしれない。しかしこいつに、携帯をとってくれとは言えない。どうやらこいつの携帯は、マサハルとかいういじめっこに取り上げられたらしい。もし俺の携帯があそこにあることが分かれば、すんなり俺に渡すはずがない。 「おい、俺をこのままにしておくつもりか」  ケンタロウはそ知らぬ顔で、煙を吐いている。 「俺を逃がしたくないならそれでもいい。せめて食い物と水を買ってきてくれないか」 「あんたをここに監禁した、変な女が届けてくれてるんだろ」  そう言って、転がっているペットボトルを鉄パイプで潰《つぶ》した。 「事情が変わったんだ。頼む」  ケンタロウはゆっくりと顔をこちらに向けた。 「それなら食い物と水を買ってきてやるよ。金よこせ、あるんだろ」 「もちろんある」  ケンタロウは立ち上がり、俺に向かって手を出した。 「出せよ」 「君を信用しないわけじゃないが、買ってきてくれたら払う」 「じゃあ金を見せてみろ」 「見せるだけだぞ」  俺はズボンのポケットから財布を出すふりをした。 「やっぱり後だ」  ケンタロウはニヤリと笑う。 「持ってないんだろ」 「あるさ」 「じゃあ財布だけでも見せてみろよ。持ってなかったら、ただじゃおかねぇからな」  その得意げな顔を見たとき、俺の中にある考えが浮かんだ。 「君が財布を返してくれたら、いくらでも見せてやるよ」  ケンタロウの表情が変わる。  やっぱり。  俺が財布を持っていないことを、こいつは知ってる。 「俺の財布を返せ」 「どうして俺が……」 「俺の財布を取ったのはお前だ」 「なに言ってんだ」 「つまりここに連れてきたのもな」 「アホくせぇ」 「大体こんな場所に、お前あの日、どうして来たんだ」 「それは……」 「心配になったか。自分が拉致《らち》して、閉じ込めた男のことが」 「うるせぇ」 「何を動揺してる。やっぱりお前が、俺をここに連れてきたんだな」  ケンタロウは吸いかけの煙草を、俺に向けて投げつけた。 「ああ、俺たちだよ。あんたをここに連れてきたのはな。それがどうした」  とうとう開き直りやがった。 「あんたが悪いんだ。くだらない説教すっから」 「説教?」 「そうさ、俺たちがたむろってたら、あんたが近づいてきて、今みたいに『子供のくせに、煙草なんて吸ってんじゃねぇ』って説教こいたんじゃねぇか。覚えてねぇんだろ」  まるで覚えがなかった。 「それでマサハルが切れて、みんなでフクロにしたんだ。あんたがぐったりしたから死んじまったと思って、ここに捨てようとしたのさ。そしたらあんた目を覚まして、また学校に言ってやるとか親を呼べとかわめいたから、手錠をつけて反省させたってわけさ」  体中のあざを見て、何かトラブルに巻き込まれたのだろうとは思っていたが、まさか相手がこいつだったとは。  それなら、あの女はいったいなんだ。どうして俺を逃がそうとしない。 「それで警官を呼ばずに、自分で手錠の鎖を切ろうとしたんだな。自分たちのやったことがばれないように」  ケンタロウはそっぽを向いている。 「いいかよく聞け、今すぐこの手錠を外せ、そうすればお前らのことは黙っていてやる」 「そんなことが信じられるか」 「拉致しただけじゃない、強盗も加われば、捕まったらまず少年院だ」 「だからなんだよ」 「俺が死んだら殺人罪も加わるぞ、お前の人生は終わりだ」 「どうせ俺は未成年だ」 「最近は少年法も厳しくなってるのを知らないのか。死刑になるぞ」 「死刑……」  ケンタロウは煙草を出そうとしたが、手が震えていたために取り損ね、地面に落とした。  このバカが新聞やニュースを見ているはずがない。こいつはおだてるより、脅す方が効果がありそうだ。 「まず死刑だ」 「ああいいさ、どうせ俺みたいなバカは、学校を出たってろくな人生じゃないからな」 「声が震えてるぞ」 「うるせぇ!」  鉄パイプを頭上に振り上げ、俺の前に立った。 「どうせ死刑なら、今殺したっていいんだぜ」  やってみろ、とは言えなかった。こういう小心なやつほど、開き直ると何をするかわからない。 「謝れ」 「何をだ」 「俺に逆らっただろ」  ケンタロウの目つきがまた変わっている。危ない兆候だ。 「謝れ!」  振り下ろした鉄パイプが、側溝のコンクリートにあたり、鈍い音をたてた。 「ここから出たいかよ」 「あたりまえだ」 「自力で逃げてみろよ。俺だって、マサハルたちに殴られても蹴《け》られても、だれも助けちゃくれないんだ。みんな自分さえよければいいのさ。この世の中、そんなヤツばっかりだ。いい年して、人を当てにするな」 「手錠でつながれてるんだ、逃げられるわけがない」 「そうでもねぇさ。この間のヤツは、自力でちゃんと逃げてたぜ。あんたもがんばってみるんだな」  この間のヤツだと。  やはりあの手錠、俺と同じ目にあっていた者がいたのだ。  妙に静かだと思ったら、ビル工事の音はやんでいる。工事日程の都合か、今日は作業をしないらしい。  一日中大の字になって寝ていた。考えるのは、食べ物のことだけだ。人は水だけあれば相当長く生きられるらしいが、空腹をいやすために飲んだ水は、すぐに汗となって全身から出ていく。蒸し暑さによる激しい新陳代謝も、俺から体力を奪っているに違いない。  もう叫ぶ気力もない。もしだれかが鉄扉を開けたとしても、そこまで届く声が出せるか、自信がなかった。  指先の痛みも、慢性化していた。鈍痛は心臓の鼓動に同調し、二の腕までしびれさせている。第一関節から先は、完全に土気色に変わっていた。  どうしてだれも来ないんだ。たとえ従業員の少ない会社だったとしても、ビルの管理人くらいいるだろう。  夜中過ぎに降り始めた雨を避けるために、レジャーシートの下にもぐりこんだ。  雨のあたる音は傘よりもうるさいが、かなり大きいシートなので、濡《ぬ》れずに横たわっていられる。そのほうが座っているよりも、体力を消耗しない。  七時半ごろ鉄扉が開く音がして、足音が近づいてきた。  何がおかしいのか、女は微笑んでいた。俺に対してうしろめたい気持ちなど、微塵《みじん》も感じていないようだ。 「食い物は?」  もうこの女に聞きたいことはそれだけだった。  すると表情が一変し、また例のつぶやきを始める。 「食い物はと聞いてるんだ」  シートから這《は》うようにして出ると、女の置いた袋を、奪い取るようにして手元に引き寄せた。  水が一本入っているだけだった。もちろんあのいまいましい封筒も。 「食い物がねぇじゃねぇか。あんたが俺を監禁したんじゃないんだろ。だったら助けてくれよ。もういいだろ。俺を餓死させる気か。このままじゃ、本当に死んじまうよ。頼むよ」  気がつくと俺は、雨でぬかるんだ地面に土下座していた。  ケンタロウにさんざんやらされて、土下座など、俺の中では何の価値もなくなっていた。  犬にでもネズミにでも、食い物をくれるならいくらでも頭を下げてやる。  泥だらけの顔を上げると、携帯カメラのレンズが、こちらを向いていた。  好奇心いっぱいの子供のような顔で、女が俺を撮っている。  泥の中で土下座する俺を。 「助けたくないなら、せめて食い物をくれ、この通りだ。腹が減ってるんだ」  女は、俺の言うことなど聞いていない。位置を変えながら、何度もシャッターを押している。  気が済むまで撮ると、ニッコリと笑って携帯をしまい、出ていった。 「待ってくれ、おい」 「よい週末でしたか?  ひょこたんはとってもハッピーな週末でした。  久々にむかしの友達とあって、みんなで焼肉を食べたのです。  ひょこたんは、カルビに目がないのです。  また太っちゃいます。(笑)  でも好きなんです。どうしょうもないのです。  焼肉をおなかいっぱい食べたはずなのに、スイーツも食べちゃいました。  甘いものは、入っちゃうんです。(笑)  今週はすこしダイエットしようと思います。 ひょこたん」  もうあの女は食い物を持ってくる気はない。俺を飢え死にさせる気だ。人間が餓死する過程を、記録するつもりなのだ。この手紙も、精神的に俺をいたぶるのが目的だろう。  ケンタロウに期待しても無駄なことは分かっている。  これまで何度も考えたことが、また脳裏をよぎった。  あれしかないのか。  手錠につながれた、右手を見た。  最後の手段。  漫然とここにいても、衰弱していくだけだ。やるなら体力があるうちでないと、自力脱出は難しい。  しかし決心がつかなかった。  だれかが発見してくれるかもしれない。まだそんな考えに、俺はどこかでしがみついていた。  体が揺れる。地震か。  さらに激しく揺れる。  目を開けると、俺の前にしゃがみ、顔を覗《のぞ》き込んでいる男がいる。  また幻覚だ。  これまで何十人もの人間が、俺を救出に来ている。全員俺の想像の産物でしかなかったが。  目の前の男は、壁に寄りかかっていた俺の頬を、軽く叩《たた》いた。 「おい」  今確かに頬に男の手の感触があった。 「大丈夫か」  男はまた俺の頬を叩く。  夢じゃないのかもしれない。  壁から背中を離し、目の前の男に抱きついてみた。左手は確かに、男の体を捕らえた。  現実だ。幻じゃない。 「おい、君。少し、臭うな」  俺の耳元で男が言った。  本物だ。本物の人間だ。  助かった。とうとう助かった。  男の肩に顔を埋《うず》め、泣いた。  俺はしばらく男の肩を借り、嗚咽《おえつ》していた。  男は五十代半ば、スーツ姿で、白いものが交じった髪を、きれいにオールバックにしている。  どのような仕事をしている人なのか、こんな所で手錠でつながれ憔悴《しようすい》しきった俺を見ても、動じることはなく落ち着き払っている。  今度は間違いない。あの女やケンタロウとは違う。  長かった。あまりにも長かった。  礼を言おうとしたが、また涙があふれてきて、言葉にならなかった。 「しっかりしたまえ、男だろ」  その紳士然とした男は、黙って俺の手を取り、ハンカチを握らせてくれた。やわらかく、温かく、すべてを包み込むような手だった。  紳士は、俺が落ち着くのを待ってから、静かに言った。 「君はいったい、ここで何をしているのかね」  すべて話した。  この都会のど真ん中でおこった、信じられない悲劇を。  そしてひょこたんとケンタロウという、病んだ十代の生態を。  俺は当然、紳士は驚愕《きようがく》し、怒り、同情してくれるものだと確信していた。しかし紳士は、話を聞きながら時折あくびをしている。  それほど退屈な話だろうか、一週間以上もこんな所に監禁されていたのに。俺にとっては、いや、だれにとっても、ありふれた体験とは言えないはずだ。  この程度のことがつまらない話に思えるほど、何度も修羅場をくぐってきた人なのか。もしくは、仕事が忙しく、何日も寝ていないのだろうか。  改めて見ると、紳士のスーツは上等なものだがしわがより、肩にはフケも落ちている。ワイシャツの襟は黒ずみ、ネクタイには点々と染みがついていた。恐ろしく長い鼻毛も、一本飛び出している。 「助けてくれますよね」  紳士はそれには答えず「どっこいしょ」と言って、地面に直接腰を下ろした。ズボンの汚れを気遣う様子など、まるでない。 「しゃがんでいると、腰に来るからな。しかし、生きていくのは大変だな。お互い」  お互い? 「数日前、君の姿を見かけてね」  聞き違いか? いや、今確かにこの人は「数日前」と言った。 「あそこから」  紳士は右手の人差し指を、空に向けた。 「屋上だ」 「屋上?」 「ああ」 「このビルに、お勤めなんですか」  紳士は答えなかった。瞬きもせず、じっと地面を這《は》う団子虫を見つめている。 「うりゃぁぁ」  突然気合のような声を出し、紳士はその団子虫を拳《こぶし》で叩きつぶした。そしてしばらくその潰《つぶ》れた屍骸《しがい》を見ていたが、大きな手で顔を覆うと、笑い出した。  何がおかしいんだ。  まさかこの人も……。  全身から力が抜けていく気がした。  それでも、わずかな希望にしがみつこうとした。  変わった人かもしれないが、少なくともこの年なら、俺の置かれた窮状を理解し、助けようとするだけの分別はあるはずだ。  顔を覗きこんだ。  泣いている。笑っているのではなく、嗚咽していたのだ。  紳士は顔を上げると、洟《はな》をすすった。 「飛び降りようとしたんだ」 「飛び降り?」 「私はね、これまで自分の弱さを曝《さら》しながら生きているヤツを軽蔑してきた。自殺したい者はすればいい、弱肉強食という摂理が機能しなくなった人間社会で、それは新たな自然|淘汰《とうた》だと思っていた。そうは思わないかね、君」 「はあ」 「そんな私が、まさかこの歳で自らの命を絶とうとするとは。ウウッ」  また紳士はうつむき、しばらく声を殺して泣いた。 「でも死ねなかった。自分が敗残者とバカにしていた連中がやり遂げたことを、私は出来なかった。毎日のようにこのビルの屋上に登ったよ。バッグに遺書を入れてね」  自分の言葉が嘘でないことを証明するかのように、紳士は何通かの遺書をバッグから取り出して見せた。 「それで数日前に君に気がついた。こんな所で何をしているのか、興味を持った」  俺はビルの屋上を見上げた。 「見てたんですか、ぼくを」 「ああ、ずっとね」  なんてやつだ。 「それなら、もうお分かりでしょう。困ってるんです。何も食べてません。警察に連絡するか、だれかを呼ぶかしてください」  紳士の表情が変った。 「警察に連絡して、どうなる」 「どうなるって、ここから出るんです」 「出るだと? 最近の若い者はすぐにこれだ。どうして我慢できない。別のところへ行けば、何かいいことがありそうか、え? そうやってすぐ会社も辞める。他の会社がよく見えるんだろう。だがな、結局どこへ行っても長続きしない」  紳士はさもウンザリしたように首を振った。 「よーく覚えておけよ若いの。どこへ行っても同じだ。良いことなんてない。どうしてか分かるか? なぜならな、この世の中に、良いことなんて一つもないからだ。悪いことは言わん、ここにいろ」  どういう理屈なんだ。 「こんな欺瞞《ぎまん》に満ちた腐りきった世界など、滅びてしまえばいいんだ」  紳士への期待値はすでに暴落していた。しかし今の俺には、この人しかいない。 「たしかに嫌なこともありますが、友人もいますし……」 「友人? 昨日の友は今日の敵という言葉も知らんのか。私がどんな目にあったか教えてやろう。取締役の椅子を目の前にして、子会社に飛ばされた。それもずっと可愛がっていた部下に、足をすくわれたんだ」  紳士は泥を握り、力任せに壁に叩《たた》きつけた。 「上岡という同期の男がいてね、入社以来ずっとライバルだった。そいつと、俺の可愛がっていた部下が、ツーカーだったんだ。何年もの間、俺はそんなことにまったく気がつかなかった。自分のバカさ加減には愛想が尽きるよ」  そんな話、こんなところに一週間も閉じ込められていた男以外に、相談するやつはいくらでもいるだろう。 「上岡は今じゃ役員だよ。私の代わりにね。四ノ宮は部長だ。あっ、四ノ宮というのは、俺の子飼いの部下のことだ」  上岡でも四ノ宮でもどうでもいい。俺はここから出たいだけなんだ。外に出られたら、いくらでも話を聞いてやる。  それから紳士は、延々とライバルの上岡と、裏切った部下、四ノ宮に対する悪口雑言を、俺に聞かせた。  時には声を荒らげ、時には涙を流し、紳士の話は三十分以上続いた。  俺はうなだれ、ただその話が終わるのをじっと待つしかなかった。とにかく機嫌を損ねないことだ。  紳士は話し終えると、大きく息を吐いた。 「何かすっきりしたよ。心の靄《もや》が晴れると言うが、まさにそんな気分だ」  その言葉通り、表情は来たときよりも明るくなっていた。 「ありがとう。お休み中のところ、邪魔したね」  紳士はニッコリと笑い、俺の肩を一度叩くと、立ち上がった。  帰るのか。 「待ってください。ぼくはここから出たいんです」 「まだ分からんのか。外は地獄だ」  紳士は行こうとする。そのズボンをつかんだ。 「それじゃあここにもう少しいます。でもお願いがあるんです。あそこにぼくの携帯があります。取ってきてください」 「携帯?」 「そうです。倒れている洗濯機のそばだと思います。黒いナイロンのバッグに入っているはずです」 「待っていなさい」  紳士は携帯を捜しに行った。 「ウハハハハ」  突然、紳士の笑い声が聞こえてきた。 「いい物を見つけたぞ」 「携帯は?」 「いいから、待っていなさい」  戻ってきた紳士が手に持っていたのは、雨で濡《ぬ》れた腐りかけのエロ本だった。 「君の本当の目的はこれだな」  おまえの本心を見破ったぞという、得意げな表情だった。 「違います。お願いです、携帯を──」 「いいから、いいから。私も男だ、よーく分かる。君らの年齢のころはだれでもそうだ」  そう言って下卑た笑いを浮かべた。 「お願いです」 「分かった、分かった。一人でゆっくり楽しめばいい」  紳士は高笑いをして、俺の前にエロ本を置き、行ってしまった。  悪夢だ。これはきっと悪夢に違いない。  女が近づいてくる。あと一メートル。  呼吸を止める。  俺は仰向《あおむ》けに横たわり、目を剥《む》いて、舌をべろりと口から出していた。  あと五十センチ。  女は俺の異変に気がつき、青い顔をして駆け寄ってきた。動揺している。  俺が死んだと思っているのだ。そうだ、お前が殺したのだ。  さあもっと近寄れ。  女が俺の行動半径に入った。  服はワンピース。携帯は間違いなくハンドバッグの中だ。  こっちは左手しか使えないうえに、飯を食ってない。体力は著しく落ちている。いくら小柄な女でも、本気で抵抗されたら力負けするかもしれない。  一瞬で決めねばならない。  女が真上から俺の顔を覗《のぞ》きこむ。  今だ。  女のバッグをつかみ、ひったくろうとした。  悲鳴が上がる。  しかし女は手を離さなかった。 「やめてください、霊騎士様」  不意を突いて一気に勝負をかけたつもりだったが、女の反射神経は案外良かった。  すぐにぶつぶつとつぶやきはじめ、バッグもしっかりと握っている。  両側から引っ張られたバッグがひっくり返り、中身が地面に落ちた。  小柄なわりには力もある。俺は腰を落とし、さらに力をいれようとした。しかしその瞬間、左手の先から激痛が走り、握力がなくなった。すぐにバッグは俺の手から離れていった。  俺がいきなりバッグを離したので、女は尻餅《しりもち》をつく恰好《かつこう》になった。しばらくそのままの体勢で、こちらを見ている。  変色し、ぶよぶよしていた中指から、血と膿《うみ》が入り混じった液体が染み出ていた。触っても、もう感覚がない。  失敗だ。落胆して、俺は崩れるように腰を下ろした。  女はまた携帯を取り出し、壁に寄りかかり肩を落とす俺を撮り始めた。俺がじっとしていると、背を向けて手をいっぱいに伸ばし、俺と自分のツーショット写真まで撮影している。アングルが決まらないのか、何度かやり直していたが、ようやく満足のいくショットが撮れたらしく、満面の笑みを浮かべ、スキップしながら帰っていった。  あの女、コンビニの袋を置いていかなかった。  それに気がついたのは、わずかに残っていたペットボトルの水を、飲み干したときだった。  置いていかなかったのではない、確か持ってこなかった。周囲を見渡したが、やはりない。  とうとう殺すことに決めたか。  水もなければ、今の俺ならせいぜいもって三日だろう。もう精神がまともに活動していないのか、それほどショックでもなかった。  横になると、目の前に文庫本が落ちている。バッグを引っ張りあったときに、落ちたらしい。  あの女が読むものだ、どうせくだらない恋愛小説か、ファンタジーだろう。手を伸ばす気にもならなかった。  空腹、疲労、そしてさっきの失敗で、あらゆる意欲が、俺の中から消えつつあった。  しばらくその本を、ただ見つめていた。  やけに分厚かった。手作りのブックカバーはピンクで、お約束の猫のキャラクターがついている。 「素晴らしい世界の創造  バラキモン騎士修道会 信者の手引き」 バーバラ・足立 著    「この世は天上界と地上界に分かれており、天上界ではバラキモン神様が絶えず悪魔たちと戦っておられます」「われわれバラキモン騎士修道会の修道士は、毎日祈りをささげることで──」「修道士は絶えず悪魔の誘惑にさらされており、その誘惑に打ち勝つことが──」  新興宗教の手引書だった。  理解不能な世界観が、百ページほどにわたって説明されている。数ページごとに現れるイラストはアニメタッチで、最近増えているという、十代の信者を意識したものだろう。  やはりあの女、どこか変だと思ったら、こんなわけの分からない宗教を信じていたのだ。  そう言えば、俺がバッグを奪おうとしたとき、何か言ってたな。  思い出そうとしたが、どうしても出てこない。  巻末が用語集になっていた。 「『霊騎士』、これだ」  たしか、──やめてください、霊騎士様──と女は俺に言った。 「霊騎士」  天上界で悪魔と戦うバラキモン神を助けるために、地上界より送られる騎士の総称。  永遠の命を有する、選ばれし者だけが、霊騎士として天上界に行くことができる。  永遠の命を有するだと。バカを言え。  いつ俺が霊騎士になったのだ。だから水一本で生きられると思ってるのか、あの女。 「介助者に選ばれたら」  介助者? 聞いた覚えがある。  警察に渡すためにとっておいた女の手紙を出した。  ──二度も介助者に選ばれるなんて、光栄です──  あいつは霊騎士である俺の、介助者ということらしい。苦笑するしかなかった。 「天上界に旅立った、霊騎士たち」と写真の説明にはあるが、どう見ても日本の即身仏で、他にもエジプトやアンデスのミイラも霊騎士ということになっている。  何ていい加減な宗教なんだ。  ──即身仏だと?  背筋を嫌な汗が伝った。 「霊騎士を介助するには」 「まず、穀類を抜いた、木の実と水だけの食事で体の脂肪分を減らしていき──」 「水だけの食事に切り替え、消化器の中をきれいに──」 「水も飲まない生活をしばらく続け──」  木の実。  ナッツだ。だからミックスナッツだったのだ。  ケンタロウはやってくるなり煙草を出し、無言で吸い始めた。不機嫌そうな顔で、時折舌打ちしている。どうせまたまた、マサハルとかいうやつに苛《いじ》められたのだろう。 「この間、以前にもここに連れてきたやつがいると言ってたろ」  しゃべるたびに、空腹でめまいがする。 「ああ、半年くらい前にな」 「そいつは?」 「だから逃げたよ。あんたと違って、泣き言なんて言わなかったぜ」 「どうやって」 「手錠の鎖を切ったんだろ。そこに片一方が残ってるじゃねぇか」 「道具もないのにどうやって切ったんだ」 「知るかよ。だれかがやつを見つけて、切ってくれたんだろ」 「そいつは今どこにいる」 「知らねぇよ。あんたみたいに通りすがりのヤツをボコッたんだから」 「最後に見たのはいつだ」 「覚えてねぇよ。何なんだよいったい」 「その竹の棒が出ているところ、掘ってみろ」  面倒くさそうに、「自縛霊ゾーン」に突き出ている、竹の棒を振り返った。 「あれが何だよ」 「あの下にいる」 「だれが?」 「お前らが、以前連れてきたってやつだ」  ケンタロウは顔をしかめた。 「なに言ってんだあんた」 「嘘だと思うなら、あの棒を、引っこ抜いてみろ」  ケンタロウは煙草をくわえ、足を引きずるようにして竹の棒の横に立った。  非力な彼でも、簡単に抜けた。 「穴の中を見てみろ」  言われるままに、竹の棒が刺さっていた穴を、覗きこんでいる。 「なにも見えねぇ」  かつて即身仏となる僧侶は、生きたまま埋められ、土の中で読経《どきよう》しながら断食死したという。気道を確保するために、竹の筒を使ったと、以前テレビで見た記憶があった。 「掘ってみろ。そこ」  舌打ちし「何で俺が」と言いつつも、その穴を気にしている。逃げたと思った男が埋まっていると聞いて、不安になったのだろう。 「ビビッたのか」 「ざけんなよ。ビビるかよ」  ケンタロウは煙草を投げ捨てると、ガラクタの山から金属製のカップを探し出し、穴の周りを掘り始めた。 「木の板が埋まってるだけだぜ」 「その下だ。板を外してみろ」  ケンタロウはしばらく迷っていた。 「どうした。やっぱり怖いか」 「バカ言え」  ムッとした顔で、板の周りの土を除《よ》けた。  板に手を掛けたが、ケンタロウはそのままの体勢でじっとしている。俺の視線に気づき、ようやく板を半分持ち上げた。  中を覗き込んだ瞬間、奇妙な声を発し、腰が抜けたようにその場に座り込んだ。助けを求めるような顔で俺を一瞬見たが、すぐに荷物を持って立ち上がった。 「俺はなんにも知らねぇぞ。全部マサハルのせいだ」  泣きそうな顔になっている。 「これは殺人事件だ。警察を呼べ、お前らのことは分からないように俺がうまく説明してやる」 「嘘つけ」 「本当だ。このままだとお前らも共犯になる」 「俺は何にも知らねぇ」 「分かってる。だから警察を呼べ。あとは俺が何とかする」  ケンタロウは爪を噛《か》みながら、おろおろと落ち着きなく歩き回った。 「ケンタロウ君、よく考えるんだ。人が死んでるんだぞ」 「ああ分かってるさ」 「早く警察を呼ぶんだ」 「うるせぇぇぇ」  涙声で絶叫し、ケンタロウは鉄扉に向かって駆け出した。 「待て」  あの野郎。人が死んでるってのに。  ──二度も介助者に選ばれるなんて、光栄です──  二度も……。  一人目はあそこに埋まっているヤツ。二人目は……。  三十分もせずに、ケンタロウは戻ってきた。  やはり不安になったのだろう。この気の小さいガキに、死体のことを黙っていられる度胸はない。  顔中汗まみれで、シャツもべったりと体に張りついている。 「警察を呼ぶ気になったか」  俺の問いかけには答えず、先ほど掘るのに使ったカップを手に、一心不乱に穴を埋め始めた。  こいつまさか。  穴を埋め、土の表面をならし、仕上げに竹の棒を突き刺した。 「警察を呼ぶんだ」 「冗談じゃねぇ。俺は死刑なんてゴメンだ。お前、余計なこと言うんじゃねぇぞ。俺は関係ねぇ。やったのはマサハルだからな」 「待てケンタロウ君。やったのがマサハルなら、彼が警察に捕まれば、彼が死刑になる。君をいじめるやつがいなくなるんじゃないのか」 「マサハルがいなくなれば、次はリュウジが頭になるだけで、何も変わらないんだよ」  ケンタロウは今にも泣き出しそうな顔で怒鳴ると、転がるようにして逃げていった。  さすがに死体を見れば、あのバカでも警察を呼ぶと思っていた。最後の賭《か》けだったが、死刑という脅しが効きすぎたようだ。  バカはあいつではなく、俺だったのかもしれない。  自殺願望の紳士は生きていた。しかしその表情は死人のように暗い。とぼとぼと俺の前に来ると、力尽きたようにしゃがみこんだ。 「元気そうだね」 「よく聞いてください。あそこに、死体があります」俺は、紳士に訴えた。「警察を呼んでください、人が殺されたんです」 「殺された? よかったじゃないか。心から祝福するよ。こんな世の中におさらばできたんだから」 「あなたはそうかもしれないが──」 「人はいつか死ぬさ。死んだ方が幸せなんだ」  目は虚ろで、声に張りがない。 「いいか、この世にしがみつく必要なんてない。そもそもなんで俺が死のうとしているか話したかな。役員の椅子を棒に振ってね。子飼いの部下の四ノ宮が、俺のライバルの上岡とツーカーで──」  紳士はまた、同じ話を始めた。  前回同様、自分の言葉に自分が興奮し、今回は一時間近く、俺を相手にまくし立てた。  話し終えると前回と同じように大きく息を吐き、あぐらをかいた。  来たときには濁っていた紳士の目には、生気が満ちている。 「まったく、義理も人情もない世界になっちまったな、そう思わないか、君」 「お願いします、僕の話を聞いてください」 「ああいいとも、これでも聞き上手といわれていてね」 「だれか呼んできてください」 「さみしくなったのか、俺がいるじゃないか」 「そうじゃなくて、死体があるんです」  紳士は我が意を得たりと言わんばかりに満足げにうなずき、「同感だ。この世の中、どいつもこいつも死んでるような目をしたヤツばかりだ」と、俺の肩を叩《たた》いた。 「そうじゃない。本当の死体が埋まってるんだ。ぼくも殺されようとしてるんです」 「俺だって、会社に殺されたも同然だよ。君だけじゃない」 「ちゃんと聞いて──」 「さてと、行くとするか」  立ち上がって、ズボンの埃《ほこり》を払った。 「待ってください」  紳士にすがりついた。 「お願いします。帰る前にぼくの携帯を」 「ああそうか、この間はそのままになってしまったね」  そう言うと例の洗濯機の後ろを捜しにいった。 「ああ、あった。これかな」  紳士は戻ってきた。右手に携帯を握りしめている。間違いなく、俺の携帯だった。 「ありがとうございます」  俺は手を出した。  紳士は何を思ったか、その左手をじっとみている。  早く携帯よこせ。 「お別れの握手か?」  どういう意味だ。何を言ってるんだあんた。  紳士は、手に持っていた携帯をゴミのように放った。そして両手をズボンにこすりつけて、拭《ふ》きだした。 「君は若いが骨のあるやつだ。もう少し早く会いたかったよ」  急に紳士の目から、涙が溢《あふ》れ出した。 「携帯を……」 「人生の最後に出あったのが君でよかった。これも神のめぐり合わせというやつかな」  紳士は両手で俺の左手を包み込むように握り、上下にゆすった。 「それじゃあ」  紳士は帰ろうとする。 「ちょっと待ってください」 「ありがとう。でも止めても無駄だ。俺はもう、この世に飽き飽きしてるんだ」 「そうじゃなくて、携帯を──」 「君はまだ若い。小さいことをクヨクヨ考えんことだ。私のようになるな、長生きしろ。じゃあな」 「待ってください」  紳士は振り返ろうともせず、去っていった。  携帯が落ちている。でもあそこまで俺の手は届かない。  終わった。 「介助者」  霊騎士になるための修行者を、介助する者のこと。 「介助者心得」 ㈰修行者は、あなたの前に突然現れます(これを降臨という)。それは、あなたが介助者に選ばれたということなのです。選ばれた介助者は、修行者に誠心誠意お仕えし、彼が優秀な霊騎士となることを、手助けせねばなりません。  修行者が降臨される場所は、はっきりと特定されていません。ただこれまでの事例から、バラキモン指数の高いスポットに、金曜日に降臨されることが多いようです。  敬虔《けいけん》な信者であるあなたは、日ごろからバラキモン指数の高い場所を定期的に巡回し、修行者が降臨された時には、すぐに介助できるように心がけましょう。  俺は体を横たえたまま、寝たり起きたりを繰り返していた。  足音に気がつき、片目を開けた。これでも何カロリーかは使ったはずだ。  女が俺の前に立ち、写真を撮っている。 「俺は霊騎士なんかじゃない。お前のくだらない宗教につき合ってる暇はない。今すぐここから出せ」  もう腹に力が入らない。  女はいつも通り、つぶやき始める。 「俺をミイラにする気だろ。分かってるんだぞ」  囁《ささや》くような声しか出なかった。  女はバッグの中からピンクの封筒を出し、俺の顔の横に置いた。 「あそこにもう一人埋まってるんだろ。知ってるぞ、この人殺し。お前は人殺しだ」 「いよいよ旅立ちの日が近づいてきましたね  ひょこたんも、ちょっぴり緊張しています。  霊騎士様がきっと悪魔を退治して、この世の中を浄化してくれると、ひょこたんは信じています。  応援してます。 ひょこたん」 「介助者心得」 ㈪修行者は、苦行の途中で悪魔に憑依《ひようい》されることがあります。  賢明なる介助者であるあなたは、けっして修行者の言葉に耳を傾けてはいけません。それは、修行者の言葉ではなく、悪魔の言葉に過ぎないのです。  もしあなたが修行者に、「自分は修行者ではない」と言われたり、「食事や水をくれ」と頼まれたりしたら、それは悪魔があなたを試しているのです。あなたはバラキモン使徒信条第五節、六の七を唱え、悪魔の言葉を打ち払いましょう。  修行者は悪魔に憑依されていても、それは表面的なことに過ぎません。あなたが唱えるバラキモン使徒信条は、修行者の心にちゃんと届いているのです。 ㈫修行者との日々の交信には、必ず文字を使いましょう。なぜなら、悪魔は文字が読めないからです。けっして会話に頼ってはいけません。あなたが会話している相手は、憑依した悪魔なのです。  あの女に言葉は通じない。いやあいつだけではない。ケンタロウも紳士も同じことだ。  決めた。  最後の手段だ。もう、これしかない。  上半身を起こした。両足には力が入らない。  左手で、壁を叩くのに使っていたコンクリートの塊をつかみ、持ち上げた。  こんなに重かったか。  一回きりだ、一回できめるしかない。  これで右手の骨を砕き、手錠から抜く。  手錠が外れたら、這《は》って外に出る。  目をつぶった。  呼吸を止めた。  塊を右手に向かって、思い切り振り下ろした。  悲鳴を上げた。  一瞬意識を失い、また目を開ける。  右手が真っ赤だ。  妙な形に曲がった右手を、手錠から引き抜く。  抜けない。なぜだ。  指の骨が何本か折れて、皮膚から飛び出してる。そいつが手錠に引っ掛かる。  嘘だろ。  無理に引き抜こうとする。骨が皮膚を引き裂く。絶叫。  しだいに意識が遠くなる。  夢なのか現実なのか、分からない。  だれかがそばにいる。 「助けてください」  のどが焼きついてしまったらしい。声にならない。 「水をください」  だんだん目の焦点が合ってくる。  あの女だ。  何をしている。  穴を掘っていた。  俺のために、井戸を掘ってくれているのか。  女は俺のために、井戸を掘ってくれている。  金属と金属がこすれあう、不快な音がしている。  まるで、鼓膜を爪で引っかかれているようだ。  女が手錠の鎖を切ろうとしていた。  金ノコを使うだけ、ケンタロウよりはましだな。  そうか、こいつは二度目なのだ。  おれは仰向《あおむ》けに寝転がり、顔を女に向け、じっと金ノコの往復運動を眺めていた。  右手が血だらけだ。どうしてだろう、思い出せない。  鎖が切れた瞬間、女の目が輝いた。  大きすぎる軍手で、額の汗を拭《ふ》いたときの女の顔は、神々しかった。 「ひょこたん。ガンバレ」「ひょこたん。ガンバレ」  耳元で、女の声がする。  後ろから抱えられ、俺は引きずられている。  かかとが地面をけずり、二本の溝ができていく。  俺の両脇からにゅっと出た女の指は、白く、細い。  膿《う》んで変色した、俺の腐った指とは大違いだ。  そのとき、携帯が鳴った。  ミカの着メロだ。俺を呼んでる。  曲に合わせ、思わず歌詞を口ずさんだ。  空が青い。  ビルの屋上で、何かが動いた。  紳士だ。  紳士が見てる。 [#地付き]了   [#改ページ] [#見出し]  鼻             第14回日本ホラー小説大賞短編賞受賞作  中央公園は騒然としていた。  装甲車の周りを、全身黒ずくめの隊員たちが走り回っている。公園の奥では火の手が上がり、悲鳴や罵声《ばせい》が聞こえてくる。  周りで見物していた野次馬が目を押さえて移動を始めた。催涙ガスだ。  突然、顔にタオルを巻き、薄汚れた服を着た男が植え込みの中から走り出てきた。男は奇声を発しながら、鉄パイプで特務隊員に殴りかかる。叫び声、ホイッスル、数人の特務隊員たちが駆け寄り、その男を取り押さえ、警棒でめった打ちにした。  野次馬から歓声があがる。隊員の一人が、男の顔に巻かれたタオルを引き剥《は》がした。露《あら》わになった顔に、警棒が振り下ろされる。鈍い音が私のところまで聞こえ、男は鼻を押さえてうずくまった。その指の間から血が滴り落ちる。  取り囲んだ隊員たちは、無抵抗になった男を、今度はコンバットブーツで蹴《け》り始めた。野次馬の中には目を背ける者もいるが、多くはこの過剰としか思えない暴力を、食い入るように見つめている。男がぐったりすると、特務隊員が両側からかかえ、護送車に引きずっていった。  警官の「立ち止まらないでください」というアナウンスにもかかわらず、あたりの見物人は増え続けている。その群衆をかき分けるように、窓に金網が張られたバスが数台、公園の駐車場に入ってきた。  まもなく公園の奥から行列が現れた。皆一様にぼろきれのような服をまとっており、中には靴を履いていない者すらいる。それぞれ荷物を抱え、重い足取りでバスに向かって行進していく。行列の中には小さな子供もいた。  催涙ガスの刺激臭に混じって、人間の集団が発する、すえたような臭いが漂ってきた。 「うぁ、臭ぇ」近くにいた若者が鼻を手で覆った。  特務隊員たちが行列の左右に立っている。列を作って行進している集団の頭には、皆白い袋がかぶせられていた。顔が見えないようにという配慮なのだろう。 「あんな袋意味ねぇ、どうせみんなテングなんだ」隣に立っていた中年の男が、吐き捨てるように言った。 「ちょっと、あんた」  男の妻なのか、横にいた女が、周囲の目を気にしながら、肘《ひじ》で突いた。 「何だよ、だってそうだろ。この公園はテングの巣だったんだから」 「テング、テングって、声が大きいよ」 「何言ってんだ。テングはテングだ。オーイ。特務隊の諸君。ガンバレよ。テング掃除は任せたぞ」  ──テング──は、当局が差別用語として使用の自粛を呼び掛けていた。しかし守る者は少ない。  道の向こうで、「差別撤廃、特務隊、警察は人権を守れ」と書かれたプラカードを持った団体が、「テングは出ていけ」と叫んでいるスキンヘッドの集団と小競り合いを始めた。 「何が人権だ。税金も払わずに、こんなところに勝手に住み着きやがって」 「テングのクズ野郎どもめ。特務隊、やつらを甘やかすんじゃねーぞ」 「ぶっ殺しちまえ」  群衆の中からヤジが飛ぶ。 「あのガキ、やけにきれいな服着てるな、どうせどっかから、かっぱらったんだろ」  そばに立っていた若い男の声が耳に入った。  男の視線の先を見て、私は思わず息を呑《の》んだ。  子供と、その手を引いた母親らしい女が行列に並んでいた。二人とも頭に袋をかぶせられ、顔は見えないが、子供の着ているピンクのトレーナーに見覚えがあった。  気が付くと私は野次馬の間を抜け、遠巻きに眺めている群衆の先頭に出ていた。それ以上は特務隊に止められ、行列には近づけない。 「オーイ」私は自分でも驚くほどの声を出して、その母娘《おやこ》に手を振った。しかし周囲の喧騒《けんそう》が、私の声を掻き消してしまう。もう一度大声で呼んだが、やはり声が届かないのか、母娘は私の方を見ない。  しかしバスに乗り込む直前、子供が私に気付いた。  少女が私に小さな手を振っている。母親もこちらを見た。間違いない、あの母娘だ。私は精一杯手を振ったが、すぐに特務隊員に促され、二人はバスの中に消えてしまった。  汚れた服を着た一団の中で、少女の着たトレーナーの鮮やかなピンク色は、ぬかるんだ泥の上に落ちた、桜の花びらのようだった。  動き出したバスを、私は見えなくなるまで目で追っていた。  その母娘に初めて会ったのは、半月ほど前のことだった。  食糧配給所にできた長い行列に、二人は並んでいた。  偶然目に留まった女の顔に私は視線を奪われ、しばらくその場に立ち尽くしてしまった。  女の髪は何日も洗っていないらしくべったりと固まっていて、服は元の色が分からないほど汚れ、異臭を放っている。 「あの」  女に近寄り、声をかけた。しかし女は私を見ようとせず、警戒するように、少女を自分の方に引き寄せた。  私は前に回り込み、女の顔を覗《のぞ》き込んだ。  似ていた。亡くなった妻のトモミに。  もちろんトモミはこんな汚い恰好《かつこう》をしてはいなかった。しかし顔の作りは、トモミに瓜二つだった。  女は自らの汚れた姿を恥じらうように顔を背けた。横では少女が不思議そうに私の顔を見上げている。少女も粗末な服装をし、足には靴の代わりに布を巻いているだけだった。  少女は私と目が合うと、「何かくれ」というように手を出した。  私はポケットの中を探り、小銭を数枚その小さな手に握らせた。少女はにっこりと笑って、大事そうに私の渡した硬貨を見つめている。  財布を出して、母親の手にも紙幣を握らせた。後ろに並んでいた男が、物欲しそうな目で女の手元を見つめている。  名刺も渡そうとしたが、私の意図を訝《いぶか》ったらしく女は受け取ろうとしない。  半ば強引に、着ていたコートのポケットに押しこんだ。 「困ったことがあったら連絡してきなさい」  なんでそんなことをしたのか、自分でもよく分からない。彼女はトモミではない。トモミは死んだのだ。しかし理性を超えた何かが、私を突き動かしていた。  しばらく歩いてから振り返ると、女も私を見ていた。  それから四、五日はたっていただろう、雨と風の強い夜だった。  ドアをノックする音を聞いた気がして、目が覚めた。風が庭の木々を揺らし、雨が窓を打っている。空耳かと思い、ベッドの中で耳をそばだてていると、やはり誰かがノックしている。急患だろうか。  私はベッドから出て、勝手口の前に立った。 「どなたです」  応《こた》えはなかった。 「用なら表に回ってください」  ドアの外で人が動く気配がし、足音が勝手口から離れていった。私はクリニックの入り口に回り、ガラス戸の中から外をのぞいた。黒い影が二つ、暗闇の中に立っている。  看板の電気をつけた。明かりの中に浮かび上がったのは、あのトモミに似た女と少女だった。  すぐにドアを開けた。「入りなさい」  二人とも真っ青な顔で、服の裾から水を滴らせ震えている。  近くにあったタオルを渡し、暖房をつけた。 「すぐに温まるから」  キッチンでミルクを温め、ビスケットをのせた皿を添えて、二人の前に置いた。  少女はカップを覗き込み、私を見た。私がうなずくと、今度は許可を求めるように母親の顔に視線を移した。女は力のない笑顔で応えた。  少女は小さな手でマグカップを持ち、ピチャピチャと音を立てながらミルクを飲み始めた。飲みながら私を見る目が笑っていた。女は手をつけようとせず、黙って俯《うつむ》いている。  バスタオルを女に渡そうとしても、自分たちの汚れた姿を気にしてか、受け取ろうとしない。私は一枚を女の前に置き、もう一枚を少女の肩にかけた。 「君の子供?」  女はうなずいた。 「外は寒かったろう。体を拭いた方がいい」  女はまだ震えていたが、思いつめた顔をし、じっと立ったままだった。少女はミルクを飲み終えると、あどけない笑顔を見せ、礼のつもりか、おかわりが欲しいのか、飲み干したマグカップの底を私に向けた。 「もっと飲むかい」私が聞くと、女は自分の分を少女に渡した。 「どうしたの、何か困ったことでも?」  女は顔を上げ、初めて私の目を見た。見れば見るほど、トモミに似ている。  手には私が渡した名刺が握りしめられていた。 「これを見て、お医者様だと」消え入りそうな、細い声だった。 「そうだよ」  また下を向き、しばらく黙ってしまった。  少女はよほど腹をすかしていたのか、ビスケットを口いっぱいにほお張って、私と母親の顔を交互に見比べている。 「どこか、悪いのかい?」 「手術をしてほしいんです」 「手術って、何の」 「先生たちみたいに……」  女は私の表情から、自分の願いがかなえられないことを悟ったようだった。それでも、わすかな望みにすがろうとするかのように、 「お金は、お金は後からちゃんと……」と続けた。  ため息が出た。「そういう手術はね──」 「この子だけでいいんです。この子だけで」目には涙がたまっている。 「お金じゃないんだよ。そういう手術は禁じられているんだ。モグリでやっているところもあるようだが、私はできない」  私は女の肩に手を置いた。  女の目からは大粒の涙がこぼれた。 「この子の父親は?」 「亡くなりました」 「住むところはあるの?」  女は首を振った。 「今はどこに?」 「駅北に」  駅の北側に、家のない人々が無許可で住みついたスラム街があった。 「特別区に行くといい、この子のためにもその方がいい」 「あそこに行けば殺されます」 「そんなことはないよ。君たちの間でそんな噂が広がっているようだけど、まったくのデマだ。特別区はそんな所じゃない。住まいも仕事も保障される。医療だってそうだ。贅沢な暮らしとは言えないだろうけど、少なくとも今よりは、人間的な暮らしが出来る」  女はしゃがみ、床に額をつけた。 「お願いです、子供だけでも」  女は声をあげて泣き始めた。子供は不思議そうな目で母親を見ている。 「さあ顔をあげなさい、他にいい方法を考えよう」  女は両手で顔を覆い、嗚咽《おえつ》していた。 「今お風呂の用意をするから。びしょ濡れじゃないか、温まっていくといい」  風呂場からは水の流れる音に混じって、子供の笑い声が聞こえてくる。  キッチンのイスに座り、私は知らぬ間に泣いていた。  少女の無邪気な声は、私に自分が一番幸せだったころのことを、思い出させた。まだこの家の中が、笑顔と、会話と、あたたかい空気で満たされていたころのことを。  何もかも変わってしまった。家も、世の中も、そして私も。今となっては、それが現実にあったことなのかすら、確信がもてなくなっていた。  私は母娘《おやこ》のために、トモミとリカの服を出した。  この七年間、私は二人がずっとこの家にいるかのように、衣替えの季節が来ると、衣装ケースを出しては箪笥《たんす》の中の物と入れ替えてきた。一度も着ていない女性物のコートを、クリーニングにも出した。人に言えばばかげていると思われるだろうが、やめられなかった。二人を失ったとき、私は未来を捨てた。トモミとリカと私の三人で作った思い出の上に、それ以上何も重ねようとは思わなかった。  なるべく暖かそうな服を選んで脱衣所に置き、ボストンバッグには、着替え用の衣類をつめた。  風呂場のドアが開く音がした。 「そこにあるものを着なさい」風呂場に向かって声をかけた。 「すいません」女の声が返ってきた。  すでに雨はやんでいたが、夜が明けるまでまだ時間があった。 「ゆっくりしていけばいい」そう言って振り返ったとき、後の言葉を失った。  トモミが立っていた。リカを連れて。  じっと見つめている私に、トモミは恥ずかしそうに頭を下げた。 「流行後れで悪いけど……」  女は首を振った。  窓ガラスに自分の姿が映っている。老けたなと思った。二人を見ていると、まるで自分の時間だけが進み、周囲の時は止まったままでいたかのような気がして、胸が詰まった。  出してやったキャラクターの付いたピンクのトレーナーがよほどうれしかったのか、少女は鏡に自分の姿を映し、様々なポーズをとっている。 「着替えを適当にバッグにつめておいたから、それを持っていくといい」  女は深々と頭を下げ、また涙をふいた。  大事にしてきたトモミとリカの思い出の品を、この親子にあげてしまうことに、何の迷いもなかった。なぜかそれが自然なことであるかのように感じていた。 「それからこれ」  現金の入った封筒を女の前に出した。 「最近は難しくなっているようだけど、君たちでもまだ借りられるアパートはあるはずだ。あのスラムは人の住むところじゃない。すぐに出たほうがいい。ただ約束してくれ、この金で手術をしようなんて考えちゃだめだ。モグリの整形外科医が金をだまし取ったり、ろくに技術がない者が請け負って、事故になったりする例も多いと聞いている」  女はうなずいた。 「部屋を見つけたら仕事を探しなさい。どうしても見つからなければまたここに来るといい。何か力になれるかもしれない」  私は女にではなく、トモミに言っていたのかもしれない。  少女はラグの上に丸まって、眠り込んでいる。  うるさく窓を叩《たた》いていた風も、いつのまにかおさまっていた。  無意識に女を引き寄せていた。女はまったく抵抗しなかった。女の髪からはシャンプーの香りがする。両腕に力をこめ、強く女を抱きしめた。女のうなじに顔を埋《うず》め、声を殺し泣いた。 「トモミ」  トモミも華奢《きやしや》な体をしていたが、女はそれ以上に痩《や》せていた。この時代に、いかに苦労をして少女を育てているのか、その体が語っていた。  私は強く抱いた。逃げようとする記憶を捕まえておこうとするかのように。その唇も胸も、私にとってトモミだった。  窓から差し込む陽光が私の顔をなでた。目を覚ましたとき、二人はもうそこにいなかった。テーブルに置かれた二つのマグカップが、昨夜のことが夢ではなかったと、教えてくれていた。  コンビニの雑誌売り場、俺の横に立ったサラリーマン。しきりにクンクン鼻を鳴らし、周囲の臭いを嗅《か》ぎだした。  犬野郎だ。  三十代、スーツ、ネクタイ、メガネ、靴、ブリーフケース、こだわりの品々、一級品。  犬野郎がコンビニを出る。俺は犬野郎を追跡する。  犬野郎は商店街を抜け住宅地に入る。携帯を出し、歩きながらいじり始める。明かりは外灯だけ、みんな寝ている、前よし、後ろよし、左右よし、上は? 上では月が、俺を応援してくれてる。  ゆっくりと犬野郎に近寄る。携帯に夢中の犬野郎。後ろから肩を叩く。犬野郎が振り向く。その鼻にパンチ。  声も出ない。ひざから崩れる犬野郎。左わき腹に俺の右足を一発。 「うっ」小さな声がして犬野郎がアスファルトに寝転ぶ。鼻から血が出始める。メガネがどこかに飛んじゃった。  次の瞬間、みぞおちに俺の左足が食い込んでる。犬野郎は腹を押さえてうずくまる。ひと休み。  犬野郎は口から何か吐き出した。汚ねぇ。  周りを見渡す。誰もいない。  俺は犬野郎を引き起こす。もうフラフラだ。今度はほっぺに、パンチ。  犬野郎が飛んでいく。  さあとどめだ。もう一度立たせる。グラグラしてる。しっかりしろ、犬野郎。ああ、犬は二本足で立てない。ダメな俺。  鼻にパンチ。犬野郎はまた崩れる。  周りを見る。誰もいない。  犬野郎のスーツの内ポケットから札入れが出てる。俺の手が伸びる。  おい、何してる。俺は中を見る。福沢諭吉が四人。おい、やめろ。福沢諭吉が俺のポケットに移ってくる。お前、何してる。  俺は札入れを犬野郎に放ってやる。犬野郎はウンウン言ってる。返してやったのに礼を言わない。  さようなら。  翌日の朝の会議。俺の最も嫌いな時間。  相棒はいけ好かないやつ。俺のことを嫌ってる。熱心にメモを取ってるフリをする。  会議の後、相棒は俺の前で地図を出す。 「手分けしましょう、私は今日こっち側、あなたはこっち側の地区をお願いします」  相棒は地図に線を引く。俺はにっこり笑って同意する。  相棒は何処かへ消えていく。クソ野郎。相棒は俺と一緒に歩かない。俺が臭いからか、俺の臭いが我慢できないからなのか。  俺は今日も一軒一軒地道に回る。今日も靴底をすり減らす。  ピンポーン。  ばあさんがしゃべってる。俺の前で機関銃のようにしゃべってる。  平日の昼。いるのはヒマな年寄りばかり。ばあさんはあてにならないことをしゃべってる。俺はうなずきながらメモを取る。  主婦が集まってる。子供が周りで騒いでる。  手帳を見せる。主婦たちが顔を見合わせる。  初めてみた刑事。ドラマの俳優と比べてる。  若い主婦がいろいろしゃべる。子供が足にまとわりつく。うるさい、うっとうしいんだよ。でも俺は笑いかける。  いくちゅかな〜。子供言葉で聞いてる俺。 「怖いわね〜。子供を外に出せないわ」主婦が言う。  お前の顔の方がよっぽど怖い。  あっち行け、ガキ。  じいさんがしゃべってる。俺は耳を傾けてる。ニコニコ笑いメモを取る。また話がそれ始める。じいさんは政治が悪いと言ってる。官僚が悪いと言ってる。若者が悪いと言ってる。じいさんが怒ってる。昔はこんなじゃなかったと嘆いてる。  俺はうなずく。なに同意してる、お前。  デブったおばちゃんがしゃべってる。 「何か気付いたこと? 不審人物?」おばちゃんはにやりと笑う。おばちゃんはいろいろ気付いてる。  おばちゃんは声を潜める。 「刑事さん。あの事件でしょ。女の子が二人行方不明の」  そう、あの事件。 「やっぱりほら、ロリコンって言うの? そういう変な人よね、恐らく」  お前の推理なんて聞いてない。 「ここだけの話なんだけど」  おばちゃんが有力情報を持っている。俺は耳を傾ける。 「隣のお嫁さんが不倫してる」 「燃えるゴミに空き缶入れてるのは、あの角の家」 「あそこのご主人は癌らしい」 「あそこの娘は帰りが遅い、きっと風俗に勤めてる」  俺は笑いながら話を戻す。  おばちゃんの嫌いな家の家族は、すべてあやしくなる。すべて不審人物になる。  そして俺は、協力的な市民に感謝の言葉を並べてる。  勝手なこと言うな。俺の口。  若造が俺の前でびびってる。  どこにいた。 「急に言われても」  若造は考えるフリしてる。ちらちら俺の顔を見てる。  こいつには前がある。専門学校生、二二歳。未成年の時にカメラを持って団地に侵入。腐ったロリ野郎。  ロリは死ななきゃ直らない。 「学校に行っていたと思いますけど……」  事件の日は日曜だよ、ロリ野郎。 「友達と……」  友達の名前は? 本人に確認取るぞ、ロリ野郎。 「刑事さん。友達に話すんですか、ぼくの昔のこと」  俺は笑って首を振る。昔じゃないだろ、たかが三年前だ、ロリ野郎。  ロリ野郎は不安そうな目で俺を見る。  俺はにっこり笑う。ロリ野郎の肩を叩《たた》き、首を横に振る。  安心しろよ。ネットの掲示板には現住所と実名書き込んでおくだけだから。 「刑事さん、あの事件の捜査ですか」  その通り。  犯人は、どうせお前みたいな腐ったロリ野郎。  一日の聞き込みがようやく終わる。捜査会議の前に相棒と待ち合わせる。 「何かありましたか?」  俺は黙って首を振る。 「こちらもです」  相棒は本庁の捜査一課、俺は所轄。相棒は三十代。俺は四二、厄年。相棒は俺に何も教えない。だから俺も何も教えない。  捜査本部。午後九時。  署長、課長、管理官。みんな仲良く並んでる。お雛《ひな》様みたいに並んでる。  みんな苦しそうな顔してる、みんなが楽しそうじゃないとき、俺は楽しい。  マスコミが騒いでる。世論が沸騰している。だから本庁も焦ってる。察庁も焦ってる。捜査員を増やしてる。俺たちは怒られる。でも捕まらない。手掛かりも掴《つか》めない。  隅の方では、本庁の一課がこそこそ話してる。自分たちだけで情報交換。俺の視線に気付いて話をやめる。  くだらない捜査会議がようやく終わる。午前一時を回ってる。俺は署には泊まらない。あんな臭い武道場には泊まらない。あんな臭い布団では眠れない。体に臭いがついちまう。  仕方がないからタクシーを拾う。  タクシーを降りて歩き出す。ズボンを尻《しり》までずらして穿《は》いた、バカが前からやってくる。バカは犬を連れている。すれ違う時、犬がクンクン、俺の尻の臭いを嗅《か》ぐ。  俺の尻は臭うのか?  俺はしばらく立ち止まり、そのバカ犬を観察する。そのバカ犬は、ほかの通行人の尻は嗅がない。  なぜ俺の尻だけ?  俺はクソをした時、携帯ウォシュレットを使ってる。  パンツを穿いたまま、屁《へ》はしない。  しちまったら、予備のパンツに穿き替えてる。  それでも俺の尻が臭うのか。  バカ犬を連れた若造にロックオン。  次の瞬間、若造はもう地面をのたうってる。腹を押さえてひーひー言ってる。俺は髪の毛をつかみ、アスファルトと鼻骨の勝負をしてみる。グシャ。アスファルトの勝ち。  若造、しっかりバカ犬のしつけをしておけ。  バカ犬は、若造がやられるのを黙って見てる。やっぱりバカ犬。  チェーンの付いた財布をズボンから引き抜く、中には野口英世が二枚だけ。  タクシー代にもならない。でも仕方がない。俺は野口英世を尊敬してる。  クリーニング代には十分だ。俺は毎日、スーツをクリーニング屋に出さなきゃならない。一回着たらクリーニング。ワイシャツだってクリーニング。金が要る。  靴下は一日二度替える。予備もバッグに入ってる。  臭うはずがない。  深夜に突然の訪問を受けてから、私はずっとあの母娘《おやこ》のことが気になっていた。外出するたびに、駅の北側十ブロックにわたって広がるスラムの方へ、無意識に足が向いてしまった。  彼らの多くがここに住んでいた。治安の悪さと劣悪な環境に恐れをなし、一部のボランティアを除いて、我々はまず立ち入ることはない。  私も中に入る勇気はなく、いつも入り口のゲート前広場をうろうろするか、置いてあるベンチに、ぼんやりと座っているだけだった。広場で遊ぶ同じ年頃の子供を見かけたときなどは、あの少女ではないかと顔を覗《のぞ》き込み、違うと分かると安堵《あんど》と軽い失望を味わった。もうこのスラムにはいない。そう思っても、外に出るとつい駅北に足が向いた。  その日も広場に置いてあるベンチに腰掛け、時間をつぶしていた。 「隣、いいですか?」大柄な男がいつのまにか横に立っていた。 「どうぞ」  男はスーツを着て、ブリーフケースを右手に持ち、身なりはきちんとしていた。あきらかにこのスラムの住人ではなかった。 「よくいらっしゃってますね、ここ」  私は思わず男の方を見た。男もじっとこちらを見ていた。眼光はするどく、固く結んだ口の下に大きな傷跡がある。軍人だろうか。 「別に監視していたわけじゃありませんよ」体格に合った野太い声で笑った。「私は毎日のようにここを通っています。先週たまたまあなたが目に付いた。それからよくお見かけするので気になっていたんです」 「私たちは珍しいですからね」 「確かにこのあたりをうろついているのは、我々貧乏テングばかりだ」 「そういう意味では……」 「ではどういう意味です。今、『私たち』とあなたは言った」  男は笑顔だったが、その目は笑っていなかった。  どうやらこの種の問題に敏感な人らしい。軍人ではなく、人権活動家、もしくは宗教家だろうか、どちらにしても、普通のサラリーマンではなさそうだった。 「私はこういうものです」  男は私の心を読んだかのように、名刺を出した。 「NPO法人 プログレス オブ ヒューマンソサイアティ    代表 ヒビノ」 「主に貧困者救済活動とか、無料の医療活動とかをスラムでやってます。もちろん活動の対象は、我々、あなた方を問いません」  最後の部分に男は力を入れた。  やはり私のことを差別主義者だと思ったのかもしれない。 「私は医者をしています」 「そうですか」 「小さなクリニックをやってます」 「このあたりには、わずかな金で臓器を売るテングもいますから」  私はヒビノをにらんだ。「私はそんなつもりでここにいるんじゃない」 「そういう人もいるということです」ヒビノは私の気分を害したことなど、気にする風もなかった。 「たしかにこの場所に、目的もなく座っている私のような者を、あやしいと思われるのも分かりますが」 「あやしいなんて思っていませんよ」 「気になっている母娘がいるんです」 「このスラムの住人ですか」  私はうなずいた。 「よかったら、話してみませんか」 「あなたはここの事情にお詳しいんですか」 「一応毎日のように行ってます」  少し迷ったが、ヒビノに例の母娘の話をした。 「あれからどうなったか気になって。スラムから出ているといいんですけど」 「それで毎日ここへ?」 「ええ」 「我々が今、粗末なアパートですらなかなか借りられないのは、金の問題じゃない。さすがに広告に書くことは禁止されていますが、不動産は事実上『テングお断り』物件ばかりだ。その母娘もあなたが渡したお金があったとしても、スラムを抜けられたかどうかはわかりませんよ」 「ええ、分かってます。だからまだここにいるようなら、何とかしてやれないかと」 「スラムには多くの人がいますからお約束はできませんけど、一応当たってみましょう」  初対面ではあったが、ヒビノの落ち着いた物腰から、信用できる人間だと感じた。  その後、ヒビノとさまざまな話をした。患者以外の人と、まともに会話をしたのは久しぶりだった。  別れ際、名刺を渡した。 「どんなことでもいいんです。分かったら教えてください」  ヒビノは黙ってうなずいた。  おばちゃんの情報。 「あやしい男がいるのよ」  俺は興味を示したフリをする。でもおばちゃんたちのガセネタにうんざりしてる。 「何年か前に事件おこした男でさ、ずっと見かけなかったんだけど、この間ばったり。歩いてたの、夜中に。でっかいマスクして。すぐそこの道を。すっかり中年太りしちゃってたけど、間違いないわ」  いいぞおばちゃん。そういう話を待っていた。マスクをした変態が深夜に徘徊《はいかい》。さあ詳しく話してみろ。 「その男がやったのが傷害事件なんだけどね、それも相手は自分の娘」  ざけんな、ばばあ。子供への虐待。よくある話。児童相談所に言えよ。  俺が捜しているのはロリ野郎。薄汚い変態幼児性愛者なんだよ! と思ってるが俺はメモを取る。うなずく。そうすると、おばちゃんはどんどん調子に乗ってくる。 「家はね、この先、大きな家なのよ。アパートも二つ持ってて、相当貯めてるわね」  さすがご近所CIA。でももういいよ。 「お嫁さんがその事件で、子供を連れて逃げちゃって。まぁおばあさんがさ、気の強い人だからいろいろあったみたいだけど」  もういいって。 「おばあさんていうのは、その男のお母さん。この辺じゃ強欲ババアって言ったらあの人のこと」  お前も似たようなもんだろ。 「その男も、子供のころに通り魔って言うの、そういうのにやられてるのよ」  何年前の話だよ、おばちゃん。いいかげんにしろよ。  俺が知りたいのはロリ野郎。子供を連れ去る変態の情報だよ。  しかしおばちゃんは得意になって話してる。 「その通り魔事件ってのがひどい話でさ、その男が子供のときにね─」  おばちゃんの話す通り魔事件。  俺の頭の中の赤色灯が回りだす。サイレンが鳴る。  ピーポー、ピーポー。  俺はおばちゃんに礼を言う。 「ねぇ、あの家行くんでしょ。何か分かったらおしえてよ」  俺は笑ってごまかす。もうお前に用はない。  俺はマスク男の家に行く。  ばあさんが出てくる。これがうわさの強欲ババア。 「あの事件? 女の子が二人いなくなってるんだろ。ニュースで見たよ」「あやしいやつを見なかったかって、最近はあやしくないやつの方が少ないだろ」 「息子? 今はいないよ」  強欲ババアは警戒した目で俺を見る。 「いつ帰るかなんて分からないよ」  強欲ババアは隠してる。俺の刑事の勘がそう言ってる。 「仕事? 息子の仕事はアパート経営、うちで持ってるアパートだよ」  通り魔事件に触れてみる。 「ああ、そうさ。とんでもない話だよ。小学生だったんだようちの子は。あんたたち警察も情けないよ、結局犯人捕まえられないで。だから税金泥棒って言われるんだよ」  もっと聞かせろその通り魔事件の話を。 「もういいだろ。そんな前の話。思い出したくもないよ」  じゃあ、マスク男に会わせろ。 「いないって言ってるだろ」  本当かババア。痛いところを突いてやる。マスク男がやった、娘への傷害事件。 「だから何なのあんた。うちの息子をあの事件の犯人だと疑ってるのかい。いいかげんにしなよ。息子の件はもう済んだことだろ。近所に変なこと言わないでおくれよ」  ババアが嫌がってる。 「あの事件もね、元はといえば原因は嫁なのよ。どこかで水商売やってた女で、うちの財産が目当てだったの。家事もろくにやらないで。あの嫁が来てから息子が変になったんだから」  マスク男をおかしくした元女房。それも会いたい。 「あの女は出ていったんじゃないわよ。追い出したの」 「子供? あの女が連れてったよ」  強欲ババアは俺が迷惑、早く帰れと目が言っている。でも俺は帰らない。 「いつ帰ってくるかなんて知らないよ。離れに住んでるんだから。それにね、何度来たってあの子は会わないよ。人見知りなの」  人見知り。会わない。そう言われれば、ぜひ会いたい。 「しつこいね、あんたも。いいかげんにしとくれよ、言っとくけどね、うちの息子を疑ってるんだったら見当違いだよ」  事件なんてどうでもいい、おれはただ、そのマスク男に会いたいだけ。  強欲ババアは俺を無視してドアを閉める。  覚えておけ、何度でも来てやる。  スラムの前で会ったヒビノから、あの母娘《おやこ》について連絡があったのは三日後のことだった。それらしい母娘は、すでにスラムを出たという。それを聞いて、少なくとも今はあの劣悪な環境にいることはないのだと思い、わずかだが気持ちが軽くなった。 「引き続きどこへ行ったか、我々のネットワークを使って調べてますよ」 「ありがとうございます」 「先生、その代わりというわけではないのですが、一度我々のセミナーに参加してみませんか」  断りきれなかった。正直そのような社会活動に参加するのは気が重かった。しかし母娘の行方を調べてもらったことに恩義を感じていたのと、二人のその後の消息も気になった。セミナーの誘いを断ったら、ヒビノとの線が切れてしまう気がした。  ヒビノと待ち合わせたのは、スラムとは反対側の、駅の南側にあるバスターミナルだった。約束の時間に、古いセダンがタイヤを軋ませて私の前に停まった。運転席にヒビノ、後部座席には若い女が座っている。私はうながされるまま、助手席に乗り込んだ。 「すぐ近くですから」そう言いながら、しきりにバックミラーを気にしている。ヒビノの運転は荒っぽかった。突然車線を変えたり、ウィンカーも出さずに、小さな路地に入ったりした。 「ちょっと君、まるで尾行でも警戒しているようじゃないか」私は不安になり、声をかけた。  すると側頭部に硬い物があたった。それが拳銃だと分かった時には、後部座席に乗った女の手が私の首に回っていた。 「先生、手荒なことはしたくない、言うことを聞いてください」ヒビノが言った。  動揺が収まる間もなく、次の瞬間には鼻と口を布で覆われた。刺激臭がして、しだいに意識が遠のいていった。  気が付いた時、私がいたのは殺風景な部屋だった。  天井から裸電球が一つ下がり、家具などは何もない。ヒビノと車に乗っていた若い女が正面に座り、私の背後には戦闘服姿の大柄な男が二人立っている。二人とも黒い覆面をしていた。 「セミナーなんて嘘なんだな」  ヒビノは答えなかった。 「君たちは解放戦線か」 「ええ、そうよ」女が代わって答えた。頬はこけ、神経質そうな狐目をしている。 「私を誘拐したところで身代金など取れないぞ」 「そんなつもりはないわ、ただ先生に協力して欲しいだけ」 「協力?」 「そう、我々の運動に」 「悪いが、私には無理だ」  女は立ち上がり、前に立つと、腕を組んで私を見下ろした。 「あなたはこの社会をなんとも思わないの」 「そういう話はもっと若い人たちにしてくれ。私は妻と娘を亡くして以来、社会との接触を極力避けてきた。これからもそうやって生きていくつもりだ」 「自分さえ良ければいいということね」 「どう取られてもかまわない。それに私は君たちのやり方には賛同できそうもない」 「じゃあ現政権には賛同できるの。あなたが捜している母娘も、現政権の差別促進政策の犠牲者なのよ」 「政府は君たちのために、いろいろな優遇策をしてるじゃないか」 「それも政府の罠《わな》なのよ。我々だけに与えるろくに効果のない保護や援助を宣伝するのは、それがあなたたちの不満や嫉妬《しつと》を煽《あお》ることを計算に入れてのことなの。犯罪もそう。政権はメディアに圧力をかけて私たちの起こした犯罪ばかりを報道させる。そうすれば必然的に我々は危険であるという偏見が生まれる。統計的に見ればあなた方と変わらなくてもね」 「君たちこそ、政府に対して偏見があるんじゃないか、だいたい政府が何のためにそんなことをする必要がある」  女はあきれたように、頭を左右に振った。 「もっと目を開いた方がいいわ、権力というものは狡猾《こうかつ》なのよ。やつらは国民の不満の矛先が自分たちに向かないようにしているの。大衆がお互いいがみ合っていれば、結束する心配はない。限られた利益を自分たちで独占できる。権力を持った者が取る手段は、昔から何も変わらないのよ」  昔から変わらないのは、こういう反政府活動家だ。女は自分の言葉に興奮し、自己陶酔しているようにしか見えなかった。  ヒビノは無言で、私の顔を見ている。 「企業の経営者を誘拐したり、特別区に爆弾を仕掛けたりすることが、差別の解消になるとは私には思えないよ」 「特別区の実態をあなたたちは知らないからよ」 「あそこで君たちが殺されていると、解放戦線が言いふらしていることは知ってる」 「それが事実、特別区は人間の殺戮工場よ。人間と言っても、あなたたちから見れば我々なんて、人間ではないのかもしれないけどね」 「あそこは社会的に恵まれない人に、職と住まいとを提供するという目的で──」 「国民|宥和《ゆうわ》特別措置法の内容なら知ってる、あなたに聞くまでもないわ。そんな話を信じてるの? あなたはあそこから帰ってきた人を見たことがある?」 「さっきも言ったように、私は社会との係《かか》わり合いを避けて生きてきた。友人も知人もほとんどいないんだ」 「特別区では働ける者以外すべて殺される。だから帰ってくる人はおろか、電話もメールも手紙も来ないの」 「君たちはこんな話をするために私をここに連れてきたのか」私は無言で座っているヒビノに向かって言った。  ヒビノは答えずに、じっと見つめ返してくる。 「協力してもらいたいことがあると言ったでしょ」答えたのは、また女の方だった。 「悪いがぼくは爆弾の知識もないし、拳銃も使えそうにない」 「そんなこと頼むつもりはないわ」 「じゃあ何をしろというんだ」 「手術をして欲しいの」 「手術?」 「転換手術よ」 「それは君たちの主張と矛盾しているんじゃないのか。我々と君たちは平等なんだろう」 「ええそうよ、あなた方と我々を分けているのは、わずかな外見上の違いだけ、それ以外何の差異もない」 「じゃぁナゼだ」 「今度、東京にも特別区ができて、法律が改正される。自立支援という名目で、我々はそこに収容される。強制的にね」 「強制だと?」初めて聞く話だった「しかしあの貧しいスラムより、その方がまだいいだろう」 「特別区が当局の発表通り、夢のコミュニティーならね」 「その特別区で君たちが皆殺しにならないように、私に手術しろと言うのか」 「信じていないようだけど、これは事実よ。政府の中にも、我々の思想に賛同して情報をくれる者がいる。当局が特務隊や警察を使って拘束を始めたら、私たちの組織だけじゃ守りきれない。だからまず子供たちの安全を確保するために、不本意だけど手術は有効な手段なのよ」 「もう帰して欲しい。私は力になれそうもない」私はヒビノに言った。  私に恐怖感はなかった。それはヒビノの目が、目的のためには手段を選ばぬ者のそれとは違っていたからだ。 「そうは行かないわ。あんたは──」  ヒビノが女を手で制した。 「先生、騙《だま》してこんなところへ連れてきて悪かった。おい、帰してやれ」 「しかしヒビノさん」狐目は不満そうだったが、ヒビノと目が合うと、言葉をのみ込んだ。 「先生、気が変わったら連絡してくれ。あんたがその気になってくれれば、救える命がある」そうヒビノは呟《つぶや》き、部屋を出ていった。  その後、私はまた目隠しをされ、車に乗せられてしばらく走った後、クリニックの近くで降ろされた。  マスク男の家。ピンポーン。ピンポーン。  母屋からババア登場。 「留守だよ。知らないね、どこへ行ったかなんて。来るなって言ったろ」  マスク男に会わせろ。 「待ってたってだめだよ。どうしてもうちの息子に会いたいなら、令状持っといでよ。こっちも弁護士用意しておくから」  絞め殺すぞ。何が弁護士だ。 「もう来ないどくれ」  いやだね。明日また来てやる。  俺はどうしてもマスク男を見たい。  連日ババアに追い返され、俺はイライラしている。どうしようもなくイライラしている。 「おじさん」女子高生が近寄ってくる。俺に向かって女性誌を振る。  何のまねだ。 「おじさんでしょ。ほら、これ」また女性誌を振る。 「その週刊誌、週刊トップ、グレーのスーツ、メールくれたのおじさんだよね」  出会い系。堕落した十代。  違うよ、うせろ。俺はそっけなく言う。  女子高生は鼻をクンクンさせ、顔をしかめる。「なーんだ」  犬女だ。  実はメール送ったのはおじさんだ。突然態度を変える俺。 「やっぱりなー」短いスカートに化粧をした女子高生は言う。「すぐ行く? 私、時間ないんだけど」  俺は黙ってついていく。  女子高生はホテルに入り、いきなり服を脱ぎ始める。 「前金ね」  手を出す女子高生。  俺がしゃべるたびに、顔をしかめる女子高生。  やっぱり犬女だ。  俺の口が臭うのか。オイ。はっきり言え。  俺は歯ブラシを携帯してる。歯磨きガムも洗口液も持っている。口臭止めスプレーも一時間に一回吹いている。  それでも俺の口が臭いか。  次の瞬間、なぜか俺のパンチが、犬女子高生の顔にめり込んでる。ゆがむ犬女子高生の顔。  茶色い髪をつかんで起こす。犬女子高生は伸びている。  鼻に、パンチ。鼻がぺちゃんこになる。  これで臭くないだろ。  俺は座ってタバコに火をつける。床で犬女子高生が熟睡してる。  その顔にタバコでお灸《きゆう》をすえる。いやな臭いが部屋にただよう。  大丈夫、俺しか嗅《か》いでない。  夜の捜査会議が終わる。  係長が眉を吊《つ》り上げて俺を呼ぶ。 「君は何をやってるんだ」  係長が怒ってる。 「署にクレームがあったぞ。うるさそうな年配の女性だ。家の周りを、毎日うろついている刑事がいると言ってたが、君だな」  あの強欲ババア。おぼえてろ。 「その家の息子さんに会わせろとしつこく言ったそうだが。どういうつもりだ」  俺はマスク男に会いたい。どうしても。 「捜査? ふざけるな。どうして寝たきりの息子さんが、この事件の容疑者になるんだ」  寝たきり? 嘘をつくな強欲ババア。マスク男は深夜に近所をウロウロしてる。  でも俺は係長に謝る。ぺこぺこ頭を下げてる。俺は卑屈に笑ってる。  係長が、蔑《さげす》むような目で俺を見てる。 「君は明日から、捜査本部に出なくていい」  目の前に座った青年の、皮肉な笑みを浮かべた口元に、見覚えがあるような気がした。しかし私の記憶にかかった靄《もや》は、青年のマサキという名を聞いても、すぐに晴れることはなかった。  その靄を吹き飛ばす風の役割をしたのは、私と話をしているときの彼の眼だった。時折周りを見回す、まるで下見に来た犯罪者のような目付き、それは子供のときから変わっていなかった。  マサキは娘のリカよりも三つか四つ年上で、子供のころ近所に住んでいた。まだこのあたりも、我々と彼らがなんのこだわりもなく一緒に住んでいた時代だった。  マサキは他の数人の子供たちと一緒に、よくうちに遊びに来ていて、彼が帰った後は、決まって何かがなくなっているのに私は気が付いていたが、子供のいたずらだと思い大目に見ていた。しかし成長するにつれマサキの行為はエスカレートし、いつしか近所の厄介者として、大人たちから白眼視されるようになっていた。  リカが亡くなってからは直接会う機会もなくなり、マサキがいつごろまでこの近所に住んでいたのか、まったく知らない。 「大きくなったね」マサキの来意を訝《いぶか》りながらも笑顔を作った。 「ええ。先生は変わりませんね」  彼の背は私よりも大きくなっていた。しかし何かを物色するように、部屋の中に抜け目なく視線を配るところは、子供のころと変わっていない。  なかなか本題に入ろうとしないマサキに、私の方から切り出した。 「どうしたの今日は?」  マサキはニヤニヤと笑っているだけだった。 「私に何か用かな」 「ええ、この間、リカさんに会ったんですよ」 「えっ」 「懐かしくてね」 「そんなはずはない」 「どうしてです? リカさんですよ。間違いありません」マサキは口元に笑みを浮かべ、私の反応を窺っている。 「リカは死んだ」 「じゃあ僕が見たのは幽霊だったのかな」 「他人の空似ということもあるからね」 「そうは思えないな。先生できればアルコールが欲しいんですけど」  キャビネットからウィスキーとグラスを出し、マサキの前に置いた。 「モリサワリカ、今のリカさんの名前ですよね」 「…………」 「先生、本当のことを教えてくださいよ」 「養子縁組をしたんだ。妻を亡くし、私も病気をした。男手一つで育てられる状況じゃなかった」 「へえ」マサキは興味なさそうに聞いていた。 「…………」 「不思議なことがあるんです」  額に汗が出てきた。 「リカさん、テングでしたよね。ぼくと同じで。でもこの間会ったリカさんは、なぜかブタになっていた。たしかリカさんのお母さんもテングでしたね、きれいな人だったな」  私はコーヒーに手を伸ばした。 「先生、手が震えていますよ。大丈夫ですか」 「それはリカじゃない。そんなことがあるはずがない」 「それなら当局に通報して調べてもらいますよ。住所も分かってる。いいんですか」 「…………」 「先生。こんな安物のウィスキーじゃなく、あのブランデーにしてもらえませんか」  マサキはキャビネットを指さした。 「好きなものを出せばいい」  マサキはブランデーを三本取り出し、二本を自分のバッグに入れた。そして一本は直接口にくわえ、喇叭《らつぱ》飲みしだした。 「最近は酒も飲めない生活でしてね」 「悪いが診察の予約が入ってるんだ」 「お邪魔ですか? 帰りますよ、テングで生まれたリカさんが、なぜブタになってるのか教えてもらえればね」 「テングとかブタなんていう言い方をするな」声を荒らげていた。 「ハハハ、差別反対ですか すばらしい、さすがインテリの先生だ」 「帰ってくれ」 「そうは行きませんよ。テングをブタに変える魔法の秘密を教えてもらうまではね」 「そんなことは知らない」  マサキはテーブルの上に片足をのせ、身を乗り出した。 「おい、俺をなめるなよ」  私は彼らに偏見を持っていない。だから周囲の反対を押し切ってトモミとも結婚した。彼らの知能指数が低いなどというのは、無教養な人間だけが持つ思い込みにすぎない。我々と彼らとの間には、その外見以外、何の違いもない。しかしたとえ生物学的にそうだとしても、そもそも偏見は科学的根拠や合理的説明などを必要としない。それは強い感染力を持つウィルスのように、ひとたび蔓延《まんえん》すれば根絶することは難しい。  妻のトモミを亡くし、幼いリカと二人だけになった直後、私は体を壊した。「血が汚れる」と言って、トモミとの結婚に反対だった親類の援助は、まったく期待できなかった。  私の古い知り合いに、子供のいない夫婦がいた。二人は人間的にも尊敬でき、経済的にも恵まれていた。  もちろんその夫婦も私同様、彼らに偏見を持っていなかった。もし差別主義者だったら、私は大切な娘を託しはしないし、それ以前に、彼らもリカを引き取りはしなかっただろう。  彼らは、そのままのリカでいいと言ってくれた。しかし当時私は、変容していく社会に不安を覚え始めていた。進学、就職、結婚、社会のあらゆる局面で彼らに対する差別が顕在化してきていたからだ。  私はリカの将来を考え、手術を決断した。生涯でたった一度、私が行った転換手術だった。こういう世の中になり、当時の決断は間違っていなかったと確信している。私はそれ以来、リカには会っていない。 「何も見なかったことにして欲しい、リカの将来のためだ」マサキに向かって手をついた。 「どーしよーかなー。先生次第ですよ」マサキはからかうように言った。「当局に通報したって、俺は一文の得にもならないんでね」 「金か」 「誠意ですよ。知らない仲ではないんですから。ただでさえこのご時勢、我々テングはあなた方と違って恵まれてなくてね。援助していただけるなら助かります」  それ以後、マサキはうちにやってきては、金をせびるようになった。しかし妙な話だが、しだいに私は、彼の来訪を心待ちにするようになっていた。  マサキは来ると必ずリカの現在の生活ぶりを口にした。彼にしてみれば、自分はリカから目を離す気はないという脅しのつもりなのだろうが、それによって私は、ずっと会っていない娘の近況を知ることができた。リカを養女に出した時、二度と会わないと心に決めていた。リカは死んだ。そう思って今まで生きてきた。マサキの存在はそんな私にとって、現在の娘の姿を垣間《かいま》見ることができる、覗《のぞ》き窓だった。  捜査本部から追い出された俺。仕事がない俺。  みんなが俺を笑ってる。役立たずとバカにしてる。  俺は署の資料室に入る。  二七年前の通り魔事件。被害者にマスク男の名前。  未解決。時効。  何度も何度も読み返す。当時の捜査資料。  馬鹿な刑事たち。犯人を取り逃がす。  被害者の顔写真。  こっそりポケットに入れる。  パチンコ屋に入る。  どうしても、マスク男のことが頭から離れない。  写真を見る。  やはり今の顔が見たい。  想像したマスク男の顔が、目の前をちらつく。  我慢できない。  二Kの汚いアパート。隣の部屋から子供の声。壁に染み込んだ生活臭。俺は女と向き合って座ってる。  靴下の穿き替えを忘れた。俺は自分の足の臭いが気になってくる。  女はマスク男の元妻。 「あの人とは別れてから、一度も会ってないんですよ」  思い出したくもないといった顔。 「まだあの家にいるんですか。あの人」  いる。でも俺には会おうとしない。マスク男に会いたい。  女は疲れてる。パート明けで疲れてる。人生にも疲れてる。  女がインスタントコーヒーを入れてくる。まずいコーヒーを飲みながら話す元女房。  その黒い湯を飲みながら、俺は聞く。 「私は最初の亭主と別れてから夜の仕事をしてまして、店にあの人が客として来たんです。会社の同僚に連れられて。真面目そうに見えましたよ、実際真面目だったし。あの人、周りにまるで女っけがなくて、会社の同僚もからかうつもりで連れてきたんです。私が少し優しくしたら勘違いしたみたいで……。それから一人で来るようになって、すぐに関係ができたんです。変わった感じの人だったけど、私も子供一人抱えてうんざりしてて、この人でいいかって」  資産家の息子、コブ付きホステスに引っかかる。なるほど。 「変わってるって、刑事さんもお分かりでしょ」  分からない。俺はマスク男にまだ会えない。 「店の女の子もみな気味悪がってましたよ」  気味悪い。あー、会いたいマスク男。  突然女が立ち上がり、窓を開ける。  オイ、なぜ窓を開ける。暑くないぞ。臭うのか? オイ、俺の足が臭うのか。  お前も犬女か。俺は拳《こぶし》を握りしめる。 「いいですか?」女はタバコを出す。  タバコか、俺はホッとする。 「あの家には財産があったから、金目当てだって相当言われましたよ。私に子供がいたのも気に食わなかったらしくて。でも何とか結婚できたのは、あの人それまでに見合いで連戦連敗、このままじゃ結婚できないって心配してたからなんです。そりゃこっちも、向こうの財産をまったくあてにしてなかったといったら嘘になりますけどね」  最初からそれだけが目的だろ。 「でも財産があるって言っても、あのけち臭いばあさんが財布を握ってて、あの人は母親に何も言えないし、私も気が弱い方じゃないから毎日|喧嘩《けんか》ですよ。あのばあさんが死ぬまでと思って我慢してたけど、娘の事件をきっかけにとうとう飛び出しました」  マスク男とこの女の娘。  結婚してすぐ生まれた娘。  しかし傷害事件。マスク男に傷つけられた娘は、今だに入院中。 「そうです、娘は入院したきり、いまだに一言もしゃべりません。ボーっと遠くを見てるみたいで。今は私と実家の母が交替で病院に行っています。あの事件のせいなんですよ娘があんなになったのは。でもあのばあさん、私の育て方に問題があったなんて言いふらして。冗談じゃないわ」  女は怒ってる。俺は神妙な顔で聞いている。 「娘の治療費と息子の学費は払うって約束なのに、あのケチな家は電話しないと振り込んでこないんですよ」  やっぱり強欲ババア。  ドアが開く。 「お帰り」  制服を着た、中学生が立っている。 「息子です」  目つきの悪い、生意気そうなガキ。 「別れるときに、学費は全額出すって言ったから、嫌がらせに上の子は私立の中学に入れたんですよ」  いかにも私立な制服。むかつく制服。 「刑事さん。あの人がどうかしたんですか」  中華新京、親父が前掛けで手を拭《ふ》きながら、俺の前にやってくる。  坊主頭のラーメン屋、小太り、ラーメンの食いすぎか、嫁さんが心配そうに、ちらちらとこっちを見てる。  俺は用件を言う。ラーメン屋はようやく安心したような顔になる。  ラーメン屋は天井を見ながら、昔を思い出している。男がうなずき出した。思い出したな。さあ話せ、マスク男の思い出を。俺はマスク男について知りたい。どんなことでも。 「ええ、ええ、彼ね、思い出しました。通り魔にあった彼ね。ハイハイ、覚えてますよ。小学校四年のときだったなあの事件は。かわいそうにあんなことされて、その前までは明るいやつだったんだけどね。それ以来、人が変わったように暗くなりましたよ。表に出たがらなくなって、あんな風にされたんじゃ、無理もないですけどね。しばらくは皆同情して優しくしてたんだけど、しょせん子供だから。だんだんからかうやつが出始めて、そのうちにいじめられるようになって。性格が暗いのも悪かったんだろうな。一度だけ俺に言いましたよ、『何も悪いことをしてないのに、何でこんな目にあうんだ』って。中学に行ってもいじめの対象ですよ」 「彼女ですか? いない、いない。それどころか、フォークダンスはまず女の子が手をつないでくれないし、遠足に行けばバスの隣の席には誰も座らない、教室でも皆で無視したりしてね。気持ち悪いとか言って、大した理由なんてないんだよ。ただ皆がやるから自分もいじめに加わるわけ。本当に暗い顔して毎日学校に来てたな、マスクして。やっぱり通り魔にやられてからですよ、あいつが変になっちまったのは、それまで俺たちと皆でワイワイ野球やってたんだから」  真面目そうなオヤジが俺の前に現れる。かしこまった顔で俺に名刺を差し出す。バーコードと額にうっすらと汗、こめかみのほくろからは長い毛が一本。真面目が服を着て歩いているような会社員。しかしこういうやつがセクハラしてる。電車の中で女子高生に触ってる。 「ええ、彼は私の部下でした。ちょっと人見知りと言うか暗いと言うか、だから営業向きではなかった。ずっと内勤でした。結局、出世も同期で一番遅かったですよね、やはり部下をまとめるのは難しいですよ、あの性格では」 「娘さんにあんなことをしたって聞いたときは驚きました。おとなしいタイプだったから。兆候ですか? うーん、分かりませんでしたね」 「思いつくことですか? 特にないですね。ああ、そうそう、同期の社員が忘年会で彼の横の席に座ったとき、何かの拍子にヒトラーの話になって、そうしたら彼が急に饒舌《じようぜつ》になったらしいですよ。なんでも自宅の部屋は第三帝国の本でぎっしりだそうで。それも単なるうわさかもしれないですけど、そういうところも皆が彼を避けていた原因なんでしょうけどね。ええ、避けてましたね。女の子は特に。気持ち悪いとか言って。僕はかわいそうだと思ったんだけど、やっぱりあの外見のせいもあったと思いますよ。ほとんど一日中マスクしてましたからね。人は見た目じゃないなんて言っても、それはあくまでも建前でね」  私はあの母娘《おやこ》のことがずっと気になっていた。しかし解放戦線のヒビノからは、二人の消息について連絡はなかった。彼らに協力することを拒んだ以上、こちらの頼みだけを聞いてくれるはずがないことは承知しているつもりだったが、電話が鳴ると、つい期待してしまう自分がいた。  中央公園で、あの母娘が連れていかれるところを偶然目にしたのは、そんなときだった。  スラムは出たものの、やはりアパートを借りるのは難しかったのだろうか、結局行き着く先は、公園しかなかったのかもしれない。  特務隊の掃討作戦以来、危険で立ち入ることのできなかった中央公園は市民の憩いの場に戻り、晴れた日は散歩する老人や、小さな子供のいる家族連れの姿も目にするようになった。  私はそのときまだ、特別区を貧困者救済施設だと信じていた。だからあの母娘は、きっと特別区で幸せに暮らしているのだと思っていた。  いや、そう思いたかっただけなのかもしれない。 「救国青年団に入ったの?」  その日マサキは、救国青年団の茶色の制服を着てやってきた。胸にはサクラとSの文字を模《かたど》った図案のワッペンがついている。 「ずっとメンバーだったのさ。俺はテングだからなかなか正式メンバーにはしてもらえなかったんだ。ようやく認められてね」  マサキは得意気だった。 「どんなことしてるの」 「テング狩りだよ」 「テング狩り?」 「ああ、テングを見つけ出して、特別区に送るんだ」  それを聞いて、解放戦線の女の言葉を思い出した。「特別区ってどこの?」 「東京だよ。隅田川の向こうにできたんだ」 「見つけ出して送るって……。特別区に行くのは希望者だけだろ」  マサキは馬鹿にするような目で私を見た。「何言ってんだよあんた。保護条例を知らないのか」 「保護条例?」 「テングはみんな、特別区にぶち込むっていう法律だよ」 「強制的に?」  マサキはうなずいた。 「だって」言いかけた言葉を、のみ込んだ。 「俺自身がテングだって言いたいんだろ。俺はやつらに協力してるから大丈夫なんだ。反抗的なやつや、病人、女子供はだめだけどね」  マサキは財布の中からIDカードを出した。 「俺みたいに、ブタに協力しているテングは、このIDカードさえあれば拘束されない」 「彼らは特別区で何をしてるんだい」  マサキは「さあな」と言ってにやりと笑った。  その意味ありげな笑いが気になった 「やっぱり工場があるんだろ。自動車とか電化製品とか、住宅も企業から提供されて……」  確認したかった。解放戦線の女が言った「特別区は人間の殺戮工場」という言葉が脳裏をよぎった。 「あんた石器時代の話でもしてるのか」マサキは履いていたブーツを見せた。「いいだろ」 「これも特別区の製品なんだね」  祈るような気持ちだった。あそこは恵まれない彼らに、職と住まいを提供する場所なのだ。そう自分に言い聞かせた。 「あれもそうだよ」マサキは自分が着てきた、壁に掛けてあるコートの方へあごをしゃくった。 「世間とは没交渉でね。こういう衣料品も作っているとは知らなかったな」 「患者はいないのか」 「最近はめっきりだよ」 「あんたがその気になれば、もっと稼げるのによ」マサキはチラッと私を見た。「リカにやったみたいにな」 「その話は……」  マサキは声を上げて笑い「冗談だよ、冗談」と、私の肩を叩《たた》いた。  自分の息子ほどの年齢のこの若者を、怒らせるわけにはいかなかった。  私自身のためではない、リカのためだった。この関係が一生続くとしても、娘のために耐える自信があった。ましてマサキが与党の青年支部である、救国青年団のメンバーと分かったからには、なおさら機嫌を損ねるわけにはいかない。  マサキは救国青年団の正式メンバーになれたのがよほどうれしかったのか、いつもより上機嫌だった。 「食いなよ」自分が持ってきたビーフジャーキーの袋を私の前に置き、ブランデーを口に運んでいる。 「美味《うま》いだろ。これも特別区で作ったんだぜ」 「おいしいね、こんな食品も作ってるんだね。おじさんは遅れてるな」 「今度はこんなジャーキーじゃなくて、あんたにもブーツを持ってきてやるよ」 「ありがとう。最近は物が高いから助かるよ。さすが君は顔が利くんだな」 「そうでもないさ。フフフ」 「どうしたの」 「これ、何の革か分かるか」  マサキはブーツを前に出し、私の顔をじっと見ている。 「やわらかそうだね」 「ああ、やっぱり革は女に限るよ」  えっ? 「まさか……」  マサキは笑った。 「女の体ってのはすごいよね。生きてるうちはもちろん楽しめるし、死んでからも捨てるところがない。皮はブーツや服、そして肉はさ」マサキは笑いながら持っていたビーフジャーキーを、いや私がビーフジャーキーだと思っていた物を振った。 「これは……」  私は口に入れた肉を吐き出し、床にうずくまった。 「今度ボディソープも持ってきてやるよ。よく落ちるし肌に優しいんだ。そりゃそうだよな、なんたって原料は……」  私は耳を両手で覆い、トイレに駆け込んで嘔吐《おうと》した。背後からはマサキの笑い声が聞こえていた。  マサキが帰るとすぐに、解放戦線のヒビノに電話をした。もらった名刺に書いてあるNPO法人の電話番号はまだ使われていた。 「もしもし」 「…………」 「あの、ヒビノさんはいらっしゃいますか」 「そちらは?」男の警戒している声だった。 「医者と言ってもらえれば、分かると思います」 「どうしてこの番号を」 「ヒビノさんに直接聞きました」 「こちらから連絡する」相手はそれだけ言うと電話を切った。  じっとしていられなかった。特別区の真実を知った以上、今までのように目と耳を塞《ふさ》ぎ、このクリニックに閉じこもって暮らすことなど、もうできなかった。  あの母娘《おやこ》に手術をしてやれば、彼らは特別区に送られずにすんだかもしれない。その思いが私を押しつぶそうとしていた。何かをしたかった。誰かと話したかった。  いつまで待っても電話はかかってこなかった。まさかヒビノもテング狩りで捕まってしまったのだろうか。すでに日付は変わっていた。  電話の前に座っていた私は、突然背後から肩を叩かれ、驚いて振り向いた。ヒビノがいつのまにかそこに立っていた。 「勝手に入らせてもらった」 「無事だったんですね」 「俺は警察や特務隊なんかに捕まるほど、間抜けじゃない」  相変わらずその態度からは、動揺のかけらすら見出すことはできなかった。 「電話をくれたそうだが」  マサキに聞いた特別区の話をした。ヒビノは表情も変えずに聞いていた。 「この間言ったはずだ。あんたがこの病院に閉じこもって、漫然と日を送っている間に、何人のテングが特別区に送られたと思う」 「しかし、まだ私には信じられない。今の時代にそんなことが行われるなんて」  ヒビノは哀れむような目で、ため息をついた。 「隅田川に行ってみろ。川の向こうに立つ高い煙突から、二十四時間出ている煙の臭いを嗅《か》いでみるんだな」  それ以上何も聞かなかった。  あの少女がピンクのトレーナーを着て、うれしそうに自分の姿を映していた鏡を見つめた。そこには無精ひげを生やした、惨めな中年男が映っているだけだった。  私が手術を断った時の、トモミに似た女の絶望した表情。私は不幸な母娘の前に、希望という糸を垂らしておきながら、母娘が必死に登ってくると、目の前でそれを切った。何という残酷なことをしたのだ。 「泣いていても始まらないぜ、先生。どうする、協力する気はあるのかないのか」 「何でも言ってください、できることなら何でもします」  数日後の深夜、ヒビノが四歳くらいの女の子の手を引いて、裏口に現れた。 「どれくらいかかる?」 「手術はすぐ終わります。でも術後の経過を見たいので、ここに最低二日は入院していてもらいたい」 「見つからないように気をつけてくれよ」 「ここは私しかいません。客もめったに来ないから大丈夫です」 「例の救国青年団の男はどうなんだ」 「二階の病室に行くことはありません」 「明日また来る」 「ちょっと待ってください、一気に連れてこられても無理です、せいぜい二人ずつが限度ですよ」 「分かった。当局のテング狩りも厳しくなっている、なるべく急いでくれ」 「この子の親は?」 「もう特別区へ連れていかれた。この子の兄弟と一緒にな」 「じゃあ、この子はこれから」 「手術が済めば、同志の家で実の子として育ててくれることになっている」 「同志」 「もちろんブタだ。この子はブタとして生きる。DNA鑑定でもしない限り分からんよ」 「当局はそんなことをする予定があるんですか」リカのことが気になった。 「今は全国で捕まえているテングを処理するだけで手いっぱいのはずだ」  それを聞いて胸をなでおろした。当面リカが特別区に送られるようなことはないだろう。自分の技術には自信がある。長く会っていないが、外見上は今でも分からないはずだ。  ヒビノは帰っていった。  残された女の子は、私をじっと見上げていた。この子の澄んだ瞳には、自分の置かれた不条理な現実がどう映っているのだろう。 「さぁ中に入ろう、中は暖かいよ」 「ねぇ私も死ぬの」 「え?」 「パパもママも、ター兄ちゃんも死んじゃったんだって、私も死ぬの」  目の前の子供と、あのときの少女の姿が重なった。 「大丈夫。おじちゃんが守ってあげるよ」私は微笑んでその小さな手を握りしめた。  翌日ヒビノが連れてきた子供も、女の子だった。ヒビノの顔には疲労の色が見えた。 「大丈夫ですか」 「俺は平気だ。先生の方こそ気をつけてくれ。当局が医者を調べてる」 「手術がばれたんですか」 「モグリ医者が結構いるからな。今、転換手術をしていることがばれたら、免許|剥奪《はくだつ》だけじゃすまないぞ、先生も確実に特別区送りになる」 「覚悟はしてます」 「くれぐれも用心してくれ」  子供を救い、その結果特別区に送られたとしても後悔はない。不思議と恐怖感はなかった。今まで精神的には死人も同様だった。これで命を落とすことになったとしても、肉体と精神が死という一点で一つになるだけのような気がした。  入団以来、マサキはいつも救国青年団の制服を着ていた。暴力の象徴のようなその制服を見るたびに、私は嫌悪感を感じたが、マサキの前ではその感情を押し殺すしかなかった。  二人の少女は二階の病室にいた。マサキに悟られることがないように、鎮静剤を打って眠らせてある。 「先生、今日は折り入って頼みがあって来たんだよ」  口元にはいつもの卑しい笑いを浮かべている。 「どうしたの改まって」 「商売を始めようと思うんだ」 「商売?」 「ああ人材派遣業を始めようと思ってね」 「それで私に何を?」  この男の考えることだ。どうせろくでもないことに決まっている。 「手術だよ。リカにしたみたいにね。これは人助けにもなるんだ」 「意味がわからないんだが……」 「簡単さ。あんたたちブタの変態オヤジに、俺がガキを斡旋《あつせん》する。まぁ風俗業だね。と言ってもブタのガキをそんな商売に使うと、ばれたときに面倒なことになる。児童福祉法とかイロイロとね。その点、テングのガキなら当局も見逃してくれる。客にはブタの子供だと言うが、実はテングを整形した偽装ブタだという寸法さ」  聞くに堪えない話だった。それを得意げに話している。どこまでこの男は腐ってるんだ。 「私には無理だ。他の医者に頼んでくれ」 「あんた、そんなこと言える立場か」 「リカのことなら、もう十分金は渡したはずだ」 「まだ十分とはいえないな。それに追加料金ももらわないとな」 「追加だと」 「ああ、子供二人分の口止め料を追加してもらう」  そう言ってマサキは私の前に手を出した。 「最近小さいのが二人、このクリニックに来ただろう」  マサキは二階にいるのは分かってるぞ、というように天井を見上げた。 「知らない。何のことだ」 「先生は嘘が下手だ。俺が何も知らないと思っているのか。何ならうちのメンバーを呼んで、このクリニックをガサ入れしようか。そんな権限ぐらいあるんだぜ」マサキは携帯を出した。 「待ってくれ」 「へへへ、分かりゃいいんだよ。近々テングのガキを連れてくる」 「君はなんとも思わないのか」怒りで声が震えた。「人間としての心がないのか」 「別に。そのガキ共だって、このままテング狩りに遭ってつかまれば、特別区に送られて殺されるだけだ。たとえブタの変態たちにおもちゃにされようが、生きていられるだけましってもんだろ。そう思わないか、先生」  俺はマスク男に会うのはあきらめない。  下校途中のガキを待ち伏せる。  あのときガキが着ていた制服。桜のマークにエスの文字のワッペン。バカでも入れる私立中学。  発見。マスク男のガキがこっちを見た。俺はにこやかに片手を挙げる。  ガキは俺に向かって頭を下げる。礼儀正しいじゃねぇか、親父と違って。そうか、こいつはマスク男の本当の子じゃない、似ているはずがない。  可愛げのないガキは、いやな目で俺を見てる。  安心しろ、あやしい者じゃない。少なくともお前の親父よりは。 「ええ、たまには父のところに顔は出してますけど……。そうです、たいがい家にいますよ。仕事ですか? よく分かりません。家賃で暮らしてるんじゃないですかね」  ガキは俺をじろじろ見てる。 「会いたいんですか、父に? どうかな、難しいかも」  数日後。ブルブル。携帯が震える。画面に「ガキ」の文字が浮く。 「刑事さん。今日の午後、父のところに行きますけど。ご都合は?」  即決。ご都合なんてない。俺はいつもヒマ。  でも俺以外の刑事は忙しい。いくらやっても成果はない。あの事件もおそらく迷宮入り、ロリ野郎の高笑いが聞こえる。俺はそんなロリ野郎よりも、マスク男に会いたい。  制服姿で、ガキが駅前に立ってる。俺は喫茶店で、ケーキとオレンジジュースをおごってやる。 「すいません、突然で」  全然OK。マスク男に会えるなら、早朝、深夜、大歓迎。 「電話したら父の機嫌がよかったものですから」  機嫌がいい、悪い、どっちでもいい。マスク男に会えるなら。  親孝行なんだね、お父さんに会いに行くなんて。俺の口は心にもないことを言ってる。 「ええ、まぁ」  嘘つけ、俺はくだけたオッサンに早変わり、本音を引き出そうとする。  俺はプロ、ガキは簡単に歌いだす。ガキはずるそうに笑いだす。 「あの家見ました? 大きい家でしょう。あそこは父と祖母で住んでます。祖母が亡くなれば、いずれ父の物になりますよね。てことは、ゆくゆくは僕と妹の物ですよ。父に兄弟はいないし、妹はあんなだし、あの財産は僕が独り占めということです」  とんでもないガキだ。でも見事な将来設計。 「ただ僕は父の本当の子供じゃないから、不安なんです。妹に財産が全部行っちゃったら悲惨でしょ。最近は遺言信託なんてはやってるらしいから。だからゴマすりに行ってるんですよ。大体、母がバカなんですよね。飛び出しちゃって。あそこで我慢していれば、僕はこんな苦労しなくてすんだんです」  いいお母さんじゃないか。俺は言う。そんなことはこれっぽっちも思ってないが、俺は言う。  ガキは簡単に引っかかる。 「だめですよ。脳みそ空っぽなんです。何も考えてない。金目当てで結婚したくせに。僕はあんな人生はごめんですよ。母が死ねば、僕は父の家に戻れるかもしれないけど、ただ妹がいるでしょう。誰かが妹の面倒を見なくちゃならないから、生きててもらわないと。母が死ぬときはできれば妹も連れてってほしいな。でもね、妹も何も役に立たないわけじゃないんですよ。父も妹の話になると多少反応するんです。実の子ですから。僕のことなんて、息子だと思っているのかどうかも疑わしい。ハハハ。別に悲しくはないですね、あの人は定期預金みたいなものだと思ってますよ。すぐには下ろせないんだけど、僕名義の貯金があるってね」  吐き気がしてくる。俺の中学時代とそっくりだ。でも俺の親父には財産がない。やっぱり世の中は不公平。     *  マサキは数日後、子供の手を引いて現れた。 「男の子じゃないか」  驚く私に、マサキはニヤニヤと笑いながら近寄り、耳元で声を落とした。 「世の中には、いろいろな趣味のやつがいるんだよ。先生」  まだ少年だった。中学生くらいだろうか。  マサキは少年の方を気にしながら、ささやいた。 「あのガキの親には、ブタへの転換手術をして逃がしてやると言って、金を受け取ってある。ガキには本当のこと悟られるなよ。逃げられたらまずいから」 「君という男は……」 「先生、これからは有望だぜ、この商売」  マサキは声を殺して笑った。     *  ピンポーン。ガキがインタホンを鳴らす。  出てこいマスク男。出てくるな強欲ババア。  返事がない、息子がマイクに向かって言う。 「お父さん。僕だよ」  返事なし。  しかしドアがわずかに開く。いよいよマスク男とご対面。  ドアの隙間から、半分顔を出したマスク男。  マスク男は俺の顔を見て、目を見開いた。  気付いたか。 「この間話した、知り合いの人だよ」  ガキが言う。でもマスク男は何も言わず、俺から目を離さない。 「入るよ」  ガキが勝手に家の中に突入。いいぞガキ。  マスク男はまだ俺を見てる。  チビでデブ、顔にはマスク、太い黒縁のびん底メガネ、髪はひどい寝癖。  マスク男はガキにコソコソと話し出す。  汗が出る。やはり、ばれたか?  しかし何事もおこらない。  分からないのか、この俺が。  俺だよ、覚えてないか。  部屋の中はきれいに片付き、ピカピカしてる。息子と俺はソファーに座る。  マスク男が立ち上がり、どこかへ行った。  ガキが笑いをこらえながら、俺に顔を寄せてくる。 「飲み物持ってきますから、見ててください」  マスク男は、トレーの上にグラスを乗せてガチャガチャ音をたてながら戻ってくる。  俺にはオレンジジュース。息子には水割り、やっぱりおかしい、マスク男。 「お父さん、僕は酒は飲めないよ。いつも言ってるだろ」  マスク男は答えない。 「何度言っても僕に酒を持ってくるんです」  俺が水割りをいただくことにする。勤務中だが関係ない。マスク男との再会を祝して。  乾杯!     *  私は水割りとオレンジジュースを、二人の前に置いた。  マサキは少年がいるにもかかわらず、自慢げにテング狩りの話をしだした。  隣に座っている少年は、話を聞いているのかいないのか、盗み見るように、時折私に視線を送ってくる。  また少年と目が合った。  その瞬間、小さな光が私の中に点《とも》った。  どこかで会っただろうか。  記憶をさかのぼってみたが、少年の顔は見つけられなかった。     * 「今、ちょうど患者が帰ったところでね」  何のことか分からない。  息子がまた小声で解説。 「自分を医者だと思ってるんです。ここをクリニックと呼んでます」  ガキは笑いを押し殺してる。完全に親父を馬鹿にしてる。  そのとき、グラッ。世界が揺れた。地震か。  なんだか眠くなってくる。あんな水割り一杯で。  そのうちに床が波打ち出した。  マスク男がこっちを見てる。  ガキもイビキをかき出した。 「おい、正樹君。どうした?」  俺はガキの体をゆする。熟睡してる。おかしい。  お前、何か入れやがったな。  マスク男、てめぇ、水割りに何入れた?  立ちあがる俺、すぐ尻餅《しりもち》をつく俺。     *  しばらくすると、少年は舟をこぎ始めた。オレンジジュースに入れた薬が効き始めたようだ。  マサキは背もたれに体重を預け、すでにイビキをかいている。  いよいよだ。もう後戻りは出来ない。  私は窓際まで行き、カーテンの陰に隠しておいたバットを手に取った。     *  マスク男がどこかに行く。  どうしようもなく眠くなる。まぶたがゆるゆる下りてくる。  マスク男が戻ってくる。  おい、何だそれ。何でバットを持ってる。  そのバットで何をする。  服を脱ぐマスク男。白ブリーフ一枚のマスク男。毛深いマスク男。  マスク男がブリーフ姿でバットをスウィングしだす。  ガキは熟睡。俺は朦朧《もうろう》。  マスク男は真剣に素振りをしてる。  バットがビュンビュンいってる。汗が飛び散る。マスク男の三段腹が揺れている。  マスク男が突然こっちを見る。  なんだ? 俺を見るな。  そのバットでどうする気だ。  マスク男が近寄ってくる。俺とガキの前にやってくる。やばい逃げろ。でも体に力が入らない。  マスク男が無言で見てる。無表情でこっちをにらんでる。  バットをかまえた。やられる。  スウィング。ブンッ!  ガンッ。  ガキの頭が、バットのスイートスポットにジャストミート。  おい、死んじまうぞ、やめろ。  マスク男は続けて振る。  ブンッ!  グシャッ。ペチャ。妙な音がする。  何度も振る。  ブンッ!  グシャッ。ペチャ。  顔に何かが貼りついた。  ガキの頭の中身が、俺の顔に飛んでくる。  やめろ。  マスク男は無表情でバットを振ってる。  息子の頭を、めった打ちにしてる。  ガキの肉と血が、雨のように降ってくる。  マスク男がバットを置いた。  呼吸が上がってる。額の汗を拭《ふ》いている。  なに満足してる。なに充実した表情してる。  俺を見るな。  次は俺の番か。  おいどうなんだ。次は俺をジャストミートするのか。  こっちに来るな。  意識がどんどん遠くなる。     *  マサキは頭から血を流して、目の前に横たわっていた。  これしかなかったのだ。呼吸を整えながら、自分に言い聞かせた。  少年はソファーで、薄目を開けている。  眠っていないのだろうか。いや、意識はないようだ。  君を守るために、仕方がなかった。  自分のつまらない倫理観に拘泥して、救える命を見捨てるようなことは、あの母娘だけでたくさんだ。  休んでいる暇はない。  ヒビノが連れてきた幼い子供たちと違い、中学生くらいのその少年は、両手で抱きかかえるには大きすぎた。  私は背中に背負って、少年を二階の手術室に連れていった。     *  目が覚めた。  ここはどこだ。薄暗い部屋。  だんだん思い出す。マスク男との対面。マスク男の振るバット。  そうだ。ガキがやられた。  生きてる俺。助かった俺。  硬いベッドに寝かされてる。頭に触ってみる。凹《へこ》んでない。脳みそも入ってる。  ジャストミートされたのはガキだけだ。  起き上がる俺。でも頭はすっきりしていない。  おや。クンクン。嗅《か》ぎ覚えのある臭い。  隣のベッドを見る。  毛布の下から小さな足が、四本出てる  俺は毛布の端をつまみ、恐る恐る中を覗く。  ウッ。強烈な臭いが鼻を突く。日本中のハエが、たかってる。  これは……。  少女二人の行方不明事件、解決。  決まった、俺の昇進。警視総監賞は間違いない。  ほえづらをかく相棒。  俺に揉《も》み手をする、係長。  俺をバカにしていた刑事どもが、尊敬の眼差《まなざ》しで握手を求めてくる。  偉いぞ俺。凄《すご》いぞ俺。  ベッドから降りる。  グラッ。  まだ足元がふらついてる。薬の影響が残ってる。  しっかりしろ俺。  マスク男を逮捕して、英雄になれ俺。  カチャ。ドアが開く。  マスク男が入ってくる。ワゴンを押してる。ワゴンの上には手術道具。白衣に帽子、手にはゴム手袋。  何の真似だ。マスク男。  お前を逮捕する。少女二人の誘拐殺人の容疑だ。ついでにお前のバカ息子殺しも。  かっこよく俺は言う。ドラマみたいに俺は言う。  でも舌がもつれてる。     *  準備を済ませて手術室に入ると、少年が目を覚まし、手術用ベッドの横に立っていた。  少年はじっと私を見ている。その目を見て、やはりどこかで見たことがある気がした。  次の瞬間、私の中である記憶が蘇《よみがえ》った。  あいつと似ている。  小学生の時だった。おそらく下校途中だったと思うが、よく覚えていない。一人で歩いていた私は、前から来た中学生とすれ違った。その直後、突然後ろから奇声が聞こえた。振り返るとその中学生が絶叫しながら私に向かって走ってきていた。  それからどうなったかは、まったく思い出せない。  私の前に立つ少年の目は、その時の中学生とよく似ていた。  恐怖と憤怒《ふんぬ》の入り混じった目。おそらくテング狩りから逃れるために、よほど恐ろしい物を見てきたのだろう。この世を覆う不条理の業火は、無垢な少年の眼の中にさえ飛び火するのだ。 「何も恐れることはないよ」  私は少年に歩み寄り、きつく抱きしめた。     *  マスク男は俺を抱きしめる。  オイッ。やめろ。逮捕だ。  手に力が入らない。  マスク男は泣きながら、俺の頬をスリスリしてる。 「もう大丈夫だ。おじさんが助けてあげるよ」  何のことだ。  男の涙と鼻水が、俺のほっぺでネバついてる。 「手術はすぐに終わるからね。君は助かるんだ」  手術?  手術って何だよ。  マスク男は俺をベッドに連れていく。ベルトで手足を縛りだす。  逃げろ俺。やばいぞ俺。でも体がうまく動かない。  やめろ、助けてくれ。もがく俺。  マスク男が俺の顔を覗《のぞ》き込む。  この目、そうこの目だ。  二七年前、中学生だった俺、すれ違った小学生、そいつが鼻を鳴らした。  クンクン。  空耳? いや確かに聞いた。  臭いのか。俺が臭いのか?  俺は臭くない。そんなに臭いのは、お前の鼻がおかしいんだ。この犬ガキ。  気がついたら、カッターを持って走ってた。  犬ガキを捕まえた。  泣く犬ガキ。頭を押さえる俺。  ザクッ。  泣きわめく犬ガキ、その目。  お前はやっぱりあの時の犬ガキ。  俺を覚えていないのか。  マスク男が泣いている。泣きながら何か言い始める。 「手術が終われば、ヒビノという強いおじさんが、君を安全なところへ連れていってくれるからね」  日比野? 日比野はお前だろ。お前が日比野じゃないか。 「隣のベッドを見てごらん。この子たちも、君と一緒に逃げるんだ」  逃げる?  もう死んでるだろ。なに言ってんだ日比野。  やばいぞ俺。逃げろ俺。  日比野が俺の鼻に、アルコールを塗りたくる。  日比野がワゴンからメスを取る。  おい、危ない。そのメスを離せ。  日比野が俺の鼻に、メスを当てる。  おい、やめろ。やめてくれ。     *  先ほどからまた雨が落ちてきた。  窓辺に立って庭を眺めていた。雨の中を猫が一匹、庭を横切っていく。  私は心地よい疲労と、充実感に浸っていた。  少年の手術は無事に終わった。明日目を覚ました時、生まれ変わった自分を見ることになるだろう。  マサキの体は、解放戦線のヒビノの指示通り、細かくしてボストンバッグにつめてある。人を殺したという罪悪感はなかった。誰かがやらなければならないことだった。  時計を見た。もうそろそろヒビノが来るはずだ。マサキの処理も、子供たちの将来も、彼に任せれば安心だろう。  そして私は虐げられた人々を救うために、これからもこの身を捧げる。  もう過去に生きることはない。 [#地付き]了   本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川ホラー文庫『鼻』平成19年11月25日初版発行           平成20年4月5日再版発行